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Kyued Upというワークショップに参加して思ったこと
Kyued Upというワークショップに参加して思ったこと
                       平田 周
 
 沖縄に、策的に設立され、昨年秋に開校したばかりの「沖縄技術大学院大学」(OIST: Okinawa Institute of Science & Technology)がある。沖縄本島の北の方(恩納村)にあり、丘の傾斜をうまく使い、広い海を見渡される斬新なキャンパス風景が見られる。
  基づく特殊な学校法人により運営され、予算のほぼ全額を政府からの補助金に拠っている。現在は、 神経科学数学計算科学化学分子科学環境生態学物理科学 に大別される5分野で学際的な研究を行っている。海外から優秀な研究者が集まり、最新の研究設備を誇る。
博士課程を含む5年制の大学院大学で、研究者は約200名。
 
 ここでPullapproachというアメリカのベンチャーがOISTと契約して行ったワークショップKyued Upが今年2月末から毎週土曜日の午後、5回にわたり開催された。趣旨はよくわからないが、研究者らに新しい事業を立ち上げるときに役立つ手法を教えるということが目的なのか。
 手法は、いまアメリカ、とくにスタンフォード大学を中心に関心が高まっているDesign Thinkingである。参加者は、OISTの関係者、外部のLocal Expertsで、5回のうち3回、オブザーバーとして参加した。
 3月29日は、最終回で、各グループの発表会であった。
 
 ワークショップのグループは次の5つだった。
 
(1) 子どものための科学教育
(2) IT教育
(3) エンターテインメント
(4) ネットワーキング
(5) コミュニティ活動
 
 Kyued Upとの手法の核となっているのは、チームメンバーがポストイットを使って思いつくあらゆる単語を並べてさまざまな着想を生み出すきっかけにするという作業と、問題解決の理想を現実化していくことで解決策を立てるという2つの方法だった。前者は、わが国では1960年代後半にわが国で大流行した河北二郎氏が考案したKJ法に類するものであり、後者は50年代後半にアメリカでナドラーが提唱したワークデザインと同様の考え方である。手法的には、とりたてて、斬新だとは言い難い。
 
 アメリカでITブームが去った2000年以後、新しいビジネスの創造に必要な能力を身につけさせるにはどうすればよいかということが、ビジネススクールの大きな課題になった。そこで生まれたのが、デザイン思考である。デザイナー(建築設計者も含まれる)は、論理的思考を進めて斬新なデザインを着想するわけではない。そのデザインで発揮される能力は何か。それを手法化しようと経営コンサルタントや研究者らが考え、その中で「デザイン思考」が人気を得た。これはアメリカ東部よりも、スタンフォード大学中心に発展し、その手法の1つにKyued Upと名づけられたようである。
 手法の妥当性や理論的効果を論じても仕方がない。これを使ってどのような成果が得られかということにあろう。ワークショップでのグループ作業を見学し、各グループの成果報告を聞いた。
(1) 子どものための科学教育
 このグループは、子どもたちに科学への目を開かせ、興味を持たせるサイエンスミュージアムを提唱した。見学型ではなく、体験型を強調しているが、とりたてて斬新なアイデアとは言えない。建設および運営費用に必要な資金問題、採算性についてはまったく考えられていない。
 
(2) IT教育
 模型の自動車を、コンピュータプログラムで操縦するという子供たちのためのワークショップである。操作に必要なプログラムを、「前に進む」「回転」など命令要素に分けて、それを選んでロボット車を運転する体験を持たせるというもの。
ロボットを動かす命令語のプログラム言語は教えない。3時間程度の学習。
 
(3) エンターテインメント
 沖縄のイベントやニュースをウエブサイトで見せるというもので、ウエブのデザインには面白さがあったが、アイデアとして斬新さはない。ビジネスモデルとしても、従来のものと差はない。
 
(4) ネットワーキング
 各所にWiFiのホットスポットがあるが、どこの場所でもインターネットの広域利用を可能にするというものである。この発想はすでにあるほか、受信装置が必要だが、WiMaxのような無線サービスもある。
 
(5) コミュニティ活動
 言葉のバリアーを超えて、多国籍の人びとが交流する方法として、新鮮な食材が提供できる農場などで食事会を開くという構想。これもとりたてて斬新とは言い難い。多くの人たちが積極的に参加させる方法論はない。
 
 結局、以上の5つのグループのうち、(2)のIT教育が1位となり、2位には(1)の科学教育が選ばれた。
 手法を体験させることに意義があったのかもしれないが、得られた成果には失望した。驚くような斬新なアイデアがない。
 その一方、ワークショップでは、みな真面目にインストラクターの指示に従って作業をしていた。こうした体験が日常性とは違うものであるため、参加者の喜びをつくる傾向が強いが、問題は成果である。手法を日常に活かすことが期待されているのだろうが、果たしてその通りになるであろうか。
 
 KJ法でもそうだったが、グループのみんなが出したキーワードやフレーズを集めて、クラスター化する場合、結局、誰か1人のリーダーの考えに誘導され、そのリーダー的役割の人の力量次第で成果が決まる。
 グループワークの成果は、グループの構成員に鍵があると思う。異なる分野の一級の人たちが集まれば、新しい発想は生まれるかもしれないが、同じような領域の、同じようなレベルの人の集まりでは斬新なものは生まれない。メンバーの中の卓越した能力のある人の意見に収束されてしまいがちである。同じレベルの人の集まりであれば、分裂するか、平凡な結論にしか到達しない。
 
 デザインの仕事は、芸術的センスと創造意欲の強い一人のデザイナーの発想に依存しているのではないか。グループ作業で独創的なものが生まれる確率は低いもではないか。キーパーソンが自分の知らない情報や発想を得る場合に有効という気がしてならない。
 チームワークによる全員参加が、大勢の人のやる気を引き出し、協力関係を生み出すことによる成果が評価される。世界的にいまチームワークが重要なコンセプトになっている。80年代の日本の成功の鍵はチームワークだったと欧米の経営学者が認め、世界的流行になった。とりわけ、QCサークルは白眉のものだった。しかし、欧米ではQCサークルはカルチャー的に不可能だった。そこで、欧米色の濃い方法が開発された。それはわが国とは異なるネットワークとして発達したのである。
 
 Kyued Upは、わざわざOISTが金を出してやるほどの意味があったのだろうかと疑問に思う。この種の指導法は、けっきよくコンサルタント会社のためにあるのではないか。次々と新しい手法を生み出して、顧客からお金を稼ぐ。
 今回、このワークショップを行ったPullapproachという会社はNikon Rasumov氏とRobin Rahe氏が創立したベンチャーであり、その二人が講師を務めた。ワークショップを盛り上げる手法はさすがにうまい。しかし、その効果については、やはり疑問を感じる。
 これが終われば、アメリカに帰るのか、あるいはアジアのほかの国に行くのか、二人に会って話したがはっきりしなかった。沖縄の日本人社会に参入することはできないであろう。
 
 
 
 
 
author:平田 周, category:人材, 08:27
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「異文化理解」と「異文化主張」
 

「異文化理解」と「異文化主張」

                    平田 周

 

 グローバル人材育成の呼び声が高い。そこで教えることの筆頭が「異文化理解」である。海外でビジネスを行うには、それぞれの国の独自の文化があり、それを無視して日本的感覚でビジネスを行えば失敗するというのが主旨である。昔からある「郷に入れば、郷に従え」ということわざが頭に浮かぶ。

そういえば、英語でもWhen in Rome, do as the Romans doというのがある。

 「異文化理解」にはかねてから疑問を感じていた。世界にはさまざまな文化がある。それらをみんな理解して、それぞれの文化の下で行われる風習や制度、思考に順応して行動することができるのだろうか。はたしてそれでビジネスはうまくいくのだろうか。ビジネスで成功している多国籍企業を見ると、どうも自分流を異文化の中で強力に押し進めているように思われる。

 

 そのような違和感を持っていたところに、T..カンという人が書いた『異文化主張』(日本経済新聞出版社 日経プレミアシリーズ)が出版され、読んでみたら参考になることが多く書かれていた。

 

序章 ビジネスのゲームに勝つために

第1章 論理力はサンデル教授に習え

第2章 お客様は必ずしも神ならず

第3章 タフネゴシエーターの条件

第4章 グローバルに通じる組織の作り方

第5章 自身の市場価値を上げ、グローバル人材のハブになる

 

異文化環境において主張すべきことをきちんと主張し、目標を達成するにはどうすればよいかを説く。いうなれば、異文化の壁をどう打ち破ってこちらの主張を貫くことができるかという視点である。日本の「異文化理解」があまりに草食系だとすれば、カン氏の主張は肉食系である。異文化という壁を理解し同調して門番に入れてもらうかという日本的アプローチに対して、門番を力と説得力で口説き落として中に入るという欧米的アプローチの違いだともいえよう。

文化の要因として、価値観、常識、習慣、英雄像をあげる。面白い。

なお、カン氏は、日本生まれ育ったビジネスマンだが、文化的背景や価値観の原型は朝鮮半島に属し、小学校からインターナショナル・スクールに通い、アメリカの大学を出て、インテルで長年勤めたあと、独立して日本の企業の社外取締役も務めているという人物である。

 

プレゼンテーションや交渉の実際の場面で、日本とはどのような違いがあるかを、著者の体験をもとにひじょうに具体的に書かれていて面白い。

 まえがきの最後に、「異文化駆け引き」(結果が変わってしまう数秒の場面10例)が紹介されている。その中の「紹介されて握手する際」では、(1)なにげなく手を差し出す (2)相手の目を見てしっかり握手するの2つがあり、正しいのは(2)である。「自分の提案に対し相手が why?と聞いてきたら」では、(1)理由を延々と説明する (2) Why not?(別にやらない理由はある?)とまず言い、やる理由をサウンドバイト式(テレビなどで使われる数秒程度の短い発言)に説明する。正解は(2)である。

 

 ロジカルシンキングでは、起承転結が基本だとされる。しかし、外国人を相手にプレゼンを行う場合は、サンドウィッチ型でいくことを勧める。サンドウィッチ型とは、1層目として結論を述べ、2層目でその説明を簡潔に行い、3層目は結論を繰り返す。

  日本人は話の途中でしばしば相槌を打つ癖がある。会議の席で相手が批判的な発言をしはじめても、日本人のなかには相槌を打つ人が少なくない。外国人には、これが誤解を与えやすい。外国人とのやり取りの中では、無意味に頭を縦に振るのも禁物である。

 

 本書には、欧米のビジネスマンがよく使う用語(新語ではない)が出てくる。

 

ソクラティック・メソッド; 質問で相手を攻めていく

グリーンライティング:最初は批判せず自由に意見を述べさせる

コンテキスト:暗黙の了解、あうんの呼吸

OHOH (on one hand, on the other hand):追い詰められたときのせりふ

FUD (Fear, Uncertainty, Doubt):相手の弱み。恐怖、不安、疑い

エレベーター・プレゼン:エレベータの中で説明できるほど手短な説得

プラスサム、マイナスサム:プラスサムwin-win、マイナスサムは痛み分け

MAC (Materially, Adverse, Condition):環境に少なからぬ悪影響が及んだ場合、契約に書かれている条件は見直されるという但し書

PC (Politically Correct):差別表現など不適切でないかどうか

シチュエーショナル・リーダーシップ:相手の能力に応じて取るべき態度

 

 グローバリゼーションと言いながら、日本的な異文化理解は「国際」「海外」と同じく、以前として外国としてとらえている。これに対してカン氏の感覚は、自分が進む先にある異文化という壁をどう乗り越えるかを考える。

 「国際」は日本を視点に他国を眺める視点だったが、グローバルとは、国籍に無関係に、自分がいま立っている球の1点を中心に全体を見る立場であり、誰もがそのような1点を持っているということであろう。

 

author:平田 周, category:人材, 07:06
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沖縄本土復帰40年
 沖縄本土復帰40

                         平田 周

 

 2012年5月15日、沖縄は本土復帰40周年を迎えた。いま私自身、沖縄での事業に取り組んでおり、その前日まで那覇市に滞在していたこともあって、余計、身近に感じた。仕事を通じて、沖縄の著名人や若い経営者らと話す機会があったので、沖縄についての知識も増えた。もし、今年2月の初めての訪沖がなかったら、多くの人と同様、沖縄についての印象は基地問題と戦争の恐怖に終わっていたに違いない。マスメディアの報道も一面的であり、本当のことを伝えていない。

 

 沖縄をグローバライズすることを目的とするそれなりに大掛かりな計画を立て、順次実行していく準備を進める中、まず会いたかったったのは沖縄にいる国際人だった。米軍基地があることもあり、きっと世界的視野で見ている人がいるに違いない。その人たちの手を借りたいと思った。しかし、そういう人物になぜか出会わない。沖縄国際大学の学長を訪ねて話したが、大学の名前は「国際」がついてはいるものの、教師も生徒もまったく国際感覚に欠けているのだという。

 中高、大学生の英語力も、全国比較では相当低いらしい。基地に勤務する人もおり、アメリカ人と接触する機会が多いはずなのに不思議なことである。

 

 沖縄サミットが開催された時の知事だった稲嶺恵一氏(現在、蠅蠅紊Δ擦参与)に会った。「沖縄の国際人を探しているのだが、なかなか見つからない。だれかご存じないか」と尋ねたら、誰もいないという返事だった。強いてあげれば、高齢だがまだ活躍している尚弘子氏くらいかという。この人は、1932年生またれで、栄養学が専門、ミシガン大学で客員教授を務め、沖縄県副知事にもなった人で、現在、今年9月にスタートする沖縄技術大学院大学の理事である。

 なぜ、沖縄に国際派がいないのか。稲嶺氏から、興味深い話を聞いた。

 1972年の沖縄返還までは、沖縄行政府はアメリカの統治下にあり、公文書はすべて英語が中心だった。しかし、返還と同時に、対日本政府への連絡に変わったため、英語に堪能な国際派は不要になった。想像するに、それまで英語のことで冷や飯を食っていた派が勢いを得たことであろう。

 1972といえば、当時25歳だった人がいま65歳である。現役の長のほとんどは、国内派なのである。上が英語について自信がなければ、下も育たない。かくして、現在の沖縄では、60歳代のエグゼクティブ層から若年層まで、国際派はいなくなったと考えてよさそうである。

 

 その結果、沖縄には、東京を意識し、北ばかりに目を向ける習慣がついてしまった。若い人たちは、海外に出たがらない。台湾や東南アジアはすぐ近くなのりに興味を示さない。製造業がないから海外進出の動機もない。日本全体よりもグローバル意識は低いと感じられる。

 沖縄の経済的自立が沖縄の中でも重要課題になっている。自立には、本土市場にモノを売るか、世界市場をめざすほかない。本土から進出した企業や取引先では、安い労働力を提供するだけで、本土に向けて“輸出”はできない。海外をめざすほかないのである。

 しかし、海外への飛躍を計画する人材がいないとなると、人的資源を頼りにすることはできない。となれば、それに代るのは“情報”ということになろう。そこで、沖縄を日本の情報発信基地にすれば、沖縄は世界から注目される存在になるのではないか。それが沖縄の若い人たちの心にグローバルな意識をよみがえさせることができるかもしれない。それがいま進めている計画である。

 沖縄は、琉球王国時代、中国と日本の間に位置して、交易が盛んだったという歴史を持つ。米軍基地も含め、沖縄をグローバライズする可能性はある。

author:平田 周, category:人材, 10:43
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エリート
 

エリート

                       平田 周

 

 日本人は「エリート」という言葉を非常に嫌う傾向がある。特権階級をイメージするからだろう。かなり前のことだが、卒業を前にした東大生が、テレビのインタビューに答えて、優秀な官僚になって、国を立ちなおしたいと答えるのを見て、テレビのコメンテータを務める評論家はエリート意識だと軽蔑し、批判をしていたのを記憶している。

 「出る杭は打たれる」という諺があるように、誰かが自分よりも上になるのが許せないのが日本人である。競馬が成り立つのは、馬は自分が先頭に立ちたいという意欲が強いからだ。ドッグレースでは、模造の兎を前に置いて走らせなければならない。マラソンなどレースで競う人間は、やはり前に出たいという本能があるのだろう。

 その本能が競争意識を生み、文明を発展させてきたともいえる。しかし、競争を好まぬ「平和」と民主主義のような「平等」の意識が、人々の意識に変化を起こしつつあるように思える。前に出るよりも、流れにうまく乗り、前でもなく後ろでもなく漂う生き方を求める。まことに平和であり、平等である。

 

 しかし、それでは活力が落ちる。経済活動は停滞する。経済が衰退すれば国は危機に遭遇する。そこで優秀な「リーダー」を求める。リーダーというのは、まずもって他よりも能力的に秀でていなければならない。秀でているだけでは、人を統率し動かすことはできない。だからリーダーがどのように振舞うべきかの教えを、古代から識者が説いてきた。

 昨今、ビジネスマンにリーダーシップを教える本や講座が盛んである。しかし、その人が他よりもひときわ優れているという前提なしに、リーダーとしての技、スキルばかりを授けようとしているかに見える。他の上に立つには、まずもってフォロワーよりも優れていなければならないのに、その差がなく、場合によっては逆転しているのだから、リーダーは務まるわけはない。

 日本人が能力的に均質であり、平等意識が強いがゆえに、すぐれたリーダーが生まれなくなった。それなのに、すぐれたリーダーの不在を嘆き、力のあるリーダーを待望する意見の本が多く出版される。

 

 いま必要なのは、エリートの認識ではないか。こういうと、多くの人は「特権階級」を生むとして拒絶反応を示す。「あいつはエリート意識が強い」とえば、軽蔑する言葉である。原語のフランス語でも、それを引き継いだ英語も、日本ほどではないにしても、必ずしも歓迎される言葉ではないのかもしれない。

 わが国で特権階級といえば、年功序列で能力とは関係なく高い地位に就き、現状維持を旨とする管理職と大企業であろう。しかし、これを特権階級として批判することは、マスメディアにおいてもほとんどない。50歳で大企業の社長や大臣になれば、「若造に何ができる」と足を引っ張るのだが。

 すぐれたリーダーを待望しながら、人が上に立つと引きずり降ろしたくなる。まさに矛盾である。

 『イギリス矛盾の力』(日本経済新聞出版社 2012)という本を出した岐部秀光氏は、その中で、イギリスは「平等」よりも「フェアネス」を重視すると述べている。日本では、何よりも平等に重きを置く。平等=フェアネスでもあるのだ。アメリカは、身分の平等ではなく、機会の平等を求めた。

 

 いまこそ、ビジネスマンや官僚、すべての日本人の中に、エリートを育てるべき時代にきていると思う。それは、学閥、財閥、官閥、門閥、党閥といった特権をベースにするものであってはならない。自らの意思において、自分がエリートでありたいという意識であるべきだ。それは奢りとか、選ばれし者という意識過剰になる危険はあるかもしれない。しかし、そういう意識なしに、リーダーは生まれない。

 そうでなければ、裁判員制度のように、くじ引きでリーダーや判定者を決めるなど、直接民主主義しかないであろう。しかし、直接民主主義が衆愚政治に堕することは、古代ギリシャが経験したところである。

 若い人たちのモチベーションを高めることの工夫がしきりに唱えられている。しかし、それが組織や上司にとってのメリットであることが見抜かれているから、思うように効果は出ない。イノベーションが必要だという声も至るところで耳にする。しかし、現実は、既得権益を失いたくない「特権階級」は、イノベーション阻止に動く。

 

 モチベーションを言うなら、エリート意識を高めるほうが筋ではないか。エリートという誤った認識をまず払拭し、エリートを復活させなければならない。それは権力や組織などに依存するエリート意識ではなく、自分の意志に根を据えたものであるべきだ。高邁な意志と能力を持つ者を「エリート」と定義する。

 「エリートを育てよう」「エリートになるには」、といった本を出してくれる出版社はない。売れるわけもない。

 やるなら電子書籍での出版だ。「エリート選書」といったシリーズを作ってみたい気持ちがある。読みたいと思う人が、エリートの種になる。

author:平田 周, category:人材, 06:39
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若い人から質問を受ける
 

若い人から質問を受ける

                     平田 周

 

 

 イトーヨーカ堂(現セブン&I)の創立者伊藤雅俊氏は、伊藤謝恩財団をつくり大学生を主体に学費援助を行うフィランソロピーに力を入れている。毎年、その催しがあり、これまで支援を受けた大勢の学生が集まる。講演の後、懇親パーティが開かれる。以前は、半分以上がビジネスや大学の先生たちだったが、いまはもうそういう人たちは数えるほどしかいない。減ったぶん、学生が埋める。伊藤氏は、来年米寿である。

 

 ほとんどが学生というパーティで何を話題にしたらよいか考える。学校のことか、就職のことか、あるいは人生論か。私は、1つだけ質問していいよということにしている。こう言われると、待ってましたとばかり質問をする学生はいない。みな一瞬、沈黙する。話の中で質問するのと違って、何を聞いたらよいか戸惑うのだろう。

 話すほうは、質問に答えるほうがずっと楽である。学生のほうも、質問への答えは、相手のほうに情報を上げることになり、何も得るものはないはずだ。疑問に答えてもらうのであれば、その答えは何よりも価値ある情報である。

 しかし、日本の学生は、先生や就職面談で会社の人から質問を受けてうまく答えることばかり気にしてきた。自分のほうが質問者になることがほとんどないのである。

 

 立正大学で国際情報論を教えていた頃、同大学の商学部の学生は全員がパソコンを支給され、学生番号がメールアドレスだった。まだメールを使ったことのない者もいた。これを授業に使わない手はないと思い、毎週、授業の内容に関連のある単行本や雑誌記事などを2,000字程度に縮約して、メールで受講生全員に送った。普通であれば、教師は、これを読んで、次の質問に答えなさいというところだが、私はそうはしなかった。学生の回答を読むのが面倒だし、正解があるのであれば、読む楽しみは何もない。そこで、私は、この記事を読んで1つだけ質問をすることを義務づけた。メールで質問し、1回につき6点あげることにした。10回の講義だったから、これだけで合格点の最低60点はとれる。授業は最初と最後だけは出ることを求めた。せめて1度くらいは顔を見てほしかったから。しかし、授業には出なくてよいと言った。

 ところが驚いたことに、受講登録学生100名の6割くらいが毎回出席するのである。ほかの先生は、授業中おしゃべりや居眠りが多くて情けないと苦情をもらしていたが、私の教室はそのようなことはまったくなかった。話している者がいれば、キャファテリアで話すほうが楽しいのではといえば済んだ。ついでをいえば、学生たちは、大きな教室の左右の壁側と後ろのほうに座り、正面が空席になる。話すほうにとっては、すこぶるやりにくい。

 そこで、授業に出席すると2点ということにしていたが、真ん中に座れば3点あげることにした。席によって値段が違う劇場と同じだが、聴衆が高く払うのではなく、逆に聴く側がより高い点数をもらえる。これも効果があった。

 

 話が主題から逸れたが、質問のことに話題を戻そう。学生からの質問は受講生全員の6割くらいだった。それにしても100名の6割だから毎週60通のメールが届く。質問を受けた以上、全員に答えなければならない。その点、メールによる質問は回答が楽だった。平均1人5分もあれば回答できた。それでも週5時間かかることになる。同僚の先生はこんなことをするのが信じられないようだった。ほとんどの質問は、簡単に答えられるし、同じような質問が多かった。といっても、答えられないものもあり、図書館で調べることもあった。インターネットの検索で情報が簡単に得られるのは助かった。しかし、それ以上に、質問に答えるために調べることはこちらにとっては勉強になった。

 

 最後にこの新方式の授業について感想をメールしてくれたら5点あげることにしたら、ほぼ全員が回答してくれた。いまでもそれを保存しているが、批判的なものは1つもなかった。先生からの質問(試験問題)に答えるのが学校の授業と思っていたので、先生に質問し、先生が回答するのはアベコベみたいで戸惑ったが、たいへんよい経験になったと喜んでもらった。日ごろ話すこともない先生からメールをもらうというのは新鮮だったようだ。大学1年のときからこういう授業を受けていたら自分の大学生活も変わっていたという者もいた。最初質問するのならラクチンと思ったが、質問するには教材を読まなければならず、難しいものだと実感したという意見もあった。

 教師のほうは、誰もが同じような答えをしてくる試験問題の回答やレポートを読むよりはるかに楽しかったし、質問を見れば、どの程度の学力や知識があるか見当がついた。超低金利の話題では、「低金利ということは、マイナス金利というのもあるのですか」という質問があった。思わず、お主できるなと思った。

 

 伊藤謝恩財団のパーティで出会った学生から2人ほど、礼状のメールをもらった。出会った人にすぐ礼状を出すのはよい習慣だが、「今後もよろしくご指導下さい」だけでなく、1つだけ質問させて下さいと書けば、もっと緊密になれるよとアドバイスした。そしたら2人ともさっそく質問してきた。そのうちの1人はいまでも時々質問のメールをよこす。

 大人は、若い人に余計なアドバイスをしたり、お説教をしたりしないほうがよいと私は思う。いずれ彼らが会社や社会を時分たちで動かすのだし、こちらは消え去るのみである。それよりは、彼らの質問に答えてあげるほうがはるかに役立つ。質問に答えるには、こちらのほうも脳を動かさなければならない。これは何よりのメンタルヘルスケアである。

 

author:平田 周, category:人材, 10:16
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パーソナリティ・トレーニング
 

パーソナリティ・トレーニング

                          平田 周

 

 日本リスク・マネジメント協会の祖慶理事長から相談を受けて、パーソナリティ・トレーニングという考えを思いついて提案したのは今年の初めでした。ぜひやろうということになって、このほど開始しました。

 対象は、病院勤務の看護師さんたちです(現在休職中の人もいる)。祖慶理事長は、長年にわたり、リスク・マネジメントの普及に努めてきた人だが、1990年代半ばからめっきり仕事が減り、リスク・マネジメントとか危機管理といった言葉は、人材開発とかグローバリゼーションに打ち消されてしまったといいます。ここ数年は、もっぱら病院のリスク・マネジメントを手がけています。それももっぱら看護師さんたち現場の人を対象とするライン型リスク・マネジメントの指導です。なぜ看護師さんを対象にしているかというと、病院経営や医師の危機管理は関心が薄いが、看護師さんたちの現場におけるエラーを防止したいというニーズがあるからだということでした。

 しかし、よくよく聞いてみると、厚生労働省から、各病院に対し、どれだけ院内で危機管理教育をしているかを把握するため、定期的に教育実施報告をする義務があるようで、日本リスク・マネジメント協会が日本各地で行う半日の講義に出席するともらえる受講証明がその報告に役立つという事情のあることを知りました。費用は病院が負担します。しかし、昨今は、病院も経営が厳しく、週末が講習にあてられていますが、看護師さんが足らず、残業が多くて難しい面もあるらしい。

 

看護師さんが負うリスクといえば、ほとんどが治療・看護におけるヒューマンエラーです。このヒューマンエラーは、巨額の賠償金を払う事故にむすびつきやすいので、病院側の関心も低くはないのですが、有効な策がありません。学者でこの問題を研究しているのはほとんどいないくらいです。研究する人がいても、どういうときにエラーを起こしやすいか、機器のどの位置にスイッチボタンをつけたらよいか、冷静さを保つには部屋の色はなに色がよいかといった応用心理学や人間工学的な研究に限られています。実際の対策では、マニュアルを製作したり、みんなから集めた「ヒヤリハット」の意見をもとにデータベースをつくったりする程度です。しかし、実際にはあまり効果はありません。ヒューマンエラーは「知識」の欠如が原因ではないからです。本人の意識や自覚といった種類のものです。

 

 では看護師さんたちに、ヒューマンエラーをなくすためにどう指導したらよいのか。けっきょくは、個人個人の人としての自覚ではないかと考えました。看護師さんたちの職業的な責任感、学ぶことの熱心さはずいぶんと高いといいます。アメリカ人の看護師さんとどう違うのだろうかと思い、アメリカに住む友人に尋ねました。日本人と違う点は、セルフルライアンス、すなわち自分自身に対する尊厳意識が強いこと、仕事への誇りが強いこと(医師と対等意識)、勤務中と仕事を離れとときの切り替えがはっきりしていて、仕事中の集中力がきわめて高いこと、訴訟による罰への恐怖があること、といった点でした。

 日本人の看護師さんには、日本人ならではの長所もありますが、考えを改めるべきものもあります。私が思ったのは、集団に流されず、自分の存在をより明確に意識することではないかという気がしました。少し大げさにいえば、個の確立です。いま認識が高まっている人間力に通じるものかもしれません。知性を高めることかもしれません。人格(パーソナリティ)を高めることです。直接エラーをなくす方法ではありませんが、状況判断、責任の重大さ、いざというときの機転、対応、的確な報告といったことは、スキルではなく、心の範疇だと考えたわけです。

 

考えはともかく、問題はどうやって教えるかです。教えるのではなく、トレーニングでなければならないと考えました。視野を広げる習慣(空間)、先を読む習慣(時間)、そして他人のことを考える習慣(人間)の3つにわけ、講義やアドバイスではなくコーチングのテクニックが有効と考えました。

実施方法として、いろいろな本の紹介やメッセージなどを、携帯電話やスマートフォンに定期的に送って読んでもらうのであれば、多忙な看護師さんたちにとって便利でしょう。知識を与える講義型教育はもう古い。一人ひとりとの接触が原理のコーチングの手法が、これからの人材教育の一つの流れになるのではないか。そんなことを考えて、とにかくやってみようということになりました。

author:平田 周, category:人材, 06:28
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ある懇親会での学生との会話
 

ある懇親会での学生との会話

                           平田 周

 

 イトーヨーカ堂の創業者伊藤雅俊氏(現在、セブン&アイ・ホールディングス名誉会長)は、フィランソロピー活動として、伊藤謝恩育英財団をつくり、多くの大学生に奨学金を与えています。これらの学生を集めて、毎年この時期に、講演会と懇親会が開かれるのですが、伊藤氏にはいろいろと世話になったこともあり、また大学生と話ができるので、招待されていつも出席するようにしています。

 先週金曜日の夕方、帝国ホテルで開かれた懇親会に出席しました。100名以上の奨学金をもらっている学生が全国から集まり、なかなかの壮観です。以前は、招待された人の出席が、学生の数に匹敵するくらいだったのですが、今年は例年になく少なかったのが印象的でした。伊藤氏の知人や銀行員やビジネス関係者が多く出世し、著名人の顔もありましたが、ビジネス界の現役から去り(いまも毎日、会社に出勤、ビジネスについての関心は依然衰えていないが)、今年86歳という年齢だけに、知人の多くはリタイアーし、新たな人脈も細るのは無理からぬことです。それでもご当人はすこぶる元気です。毎日会社に出て、毎日人に会って話をする人ですから、ちっとも老けた容貌ではないのですが、それでも今年初めて杖をついた姿が印象に残りました。

 

 伊藤謝恩育英財団の奨学制度は、指定された国立大学29校、公立大学2校、私立大学9校に入学して、奨学金を必要とする学生40名に、入学金30万円、毎月6万円の学費を4年間支給するというものです。1人に総額318万円支給され、毎年40人でから、奨学金の規模は年12,720万円ということになります。

 

【国立大学】北海道大学・弘前大学・東北大学・秋田大学・筑波大学・

埼玉大学・千葉大学・新潟大学・金沢大学・横浜国立大

学・東京大学・一橋大学・東京学芸大学・お茶の水女子

大学・東京工業大学・東京外国語大学・東京海洋大学・

東京医科歯科大学・東京農工大学・信州大学・山梨大学・

静岡大学・名古屋大学・京都大学・大阪大学・神戸大学・

岡山大学・広島大学・九州大学

公立大学】横浜市立大学・大阪市立大学

私立大学】慶應義塾大学・早稲田大学・学習院大学・上智大学・中

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 財界人など、わが国ではフィランソロピー活動はきわめて低調です。個人ベースではほとんどなされていないのが実情だといってもよいでしょう。少なくとも、そうした活動が公にされません。そういうことから考えれば、伊藤氏の奨学制度は白眉です。しかし、欧米から比べれば、あまりに規模が小さいように思われます。富豪といわれる人が少なく、資産の規模も小さいせいでもあるのですが、日本人は財産を子どもたちに残したいという思いが強いのに対し、近年のアメリカの実業家には、儲けたものは社会に還元して死ぬという思想が強くあります。子どもたちに多額の財産を残せば、かえって不幸にするという考えもあります。

 しかし、それだけではなく、マスコミがこの問題にきわめて関心が薄いことが関係しているように思います。伊藤氏のフィランソロピーについてもまったく報道されません。アメリカでは、BusinessWeek誌が毎年、フィランソロピーの個人番付を発表します。これが刺激になって、ずいぶんとフィランソロピーの金額が増えたといいます。

 

 前置きが長くなりました。本当は、懇親会の場で学生と話したことを報告しようと思ったのですが、主題がずれてしまったようです。

 いつも学生たちの若々しさを頼もしいと思うのですが、何を話せばよいか考えてしまいます。月並みには、「いま何を勉強しているのか」「将来何をめざすのか」といった質問になりますが、あまり面白くはありません。日本の将来をどう思うかといった質問では、答えるほうも困ってしまいます。

そこで、「何か私に質問したいことはありませんか」ということにしています。尋ねられた相手はたいてい戸惑うのですが、最近は「将来のことをどのように考えたらよいか」という質問が多くなっています。やはり将来が見えず、不安があるのでしょう。

一人の物理学専攻の学生から尋ねられて、「将来やりたいことを1点に置いて、過去と現在を結び、さらに現在とその未来の点を結んでできる線を“微分”すれば、いま何をすべきかわかるのでは?と、ヘンな答えをしてしまいました。飲んでいたアルコールのせいかもしれません。考えていたのは、学生という立場からすれば、どのような未来を志向することができるが、過去(自分の性格や好みなども含め)の影響もあるということだったのでしょう。

しかし、未来の点をどこに置いてよいかがわからないという学生の質問には答えになっていないことに気づきました。「自分は将来何をしたらよいのでしょう」と聞かれても、答えようがないのですが。

 

author:平田 周, category:人材, 06:19
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企業内教育(補遺)
 

企業内教育(補遺)

                               平田 周

 

 私は、古い本を読むのが好きである。古典というわけではない。これからどうなるかといった予測を書いている本を読み直して、その後の現実と比べてみる。当たっているものもあれば、そのとおりにはならなかったものもある。予測した人の評価をするというのではない。未来を予測するということはしょせん不可能に近いものなのだから。しかし、予測するにあたっては、占いと違い、必ずなんらかの根拠をベースにしている。いうなれば仮説である。大事なことは、予測が間違ったことではなく、なぜ予測どおりにならなかったかを知ることにある。

 

 『もし高校野球の女子マネジャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』(もしドラと略称されている)は、未だに八重洲ブックセンター本店のビジネス書ベスト10に入っている。出版されたのが昨年の12月だから、ちょうど1年になる。驚きの人気である。読んではいないが、大体内容は見当がつく。ドラッカー先生も墓場の陰で驚いていることだろう。マンガチックなストーリーではなく、彼が書いた本を読むべきだと言いたいところだが、民衆の流れには大政治家といえども逆らえない。うまくその流れを利用するしかないだろう。

 そんな思いもあったせいか、書棚からドラッカー著『断絶の時代−来るべき知識社会の構造』を取り出して読んでみた。1969年に書かれたものである(邦訳も同年)。当時は未来学が人気の時代で、私も技術予測の仕事をしていたから、興奮して読んだ記憶がある。その後、日本の経営者の間にドラッカー信仰が広まるにつれ、私はドラッカーから離れていった。ドラッカーの思想や考えに逆らったからではない。彼が日本のことを異常に高く評価し、日本経営がすばらしいとほめるのに心地よさを覚える日本人経営者の軽さに抵抗感があったからである。70年代、80年代と日本は高度成長期に続く石油ショックを乗り切り、超円高も克服し、ついに「ジャパン・アズ・ナンバーワン」といわれるほどになった。ドラッカーが悪いわけではないが、日本人が自己陶酔に陥らせる原因にはなった。それがひいてはバブルを生み、20年にわたるわが国の経済停滞をもたらした。

 アメリカではドラッカーの評価は高くない。日本を持ち上げるドラッカーに対して反感があったし、学者の経歴や実績がない(新聞記者出身)ことが、評価を低めていた。評価では、日本とアメリカは対象的である。最近は、アメリカでもドラッカーに対する見直しもあるが。

 

 話が横道に逸れてしまった。ドラッカーのことを書くつもりではない。上述の『断絶の時代』の13章(知識社会の労働者)、14章(“成績主義”の臨終)、15章(知識社会の教育)に、教育に関して過去から現在、未開社会から先進国、欧州、アメリカ、東洋など、広い視野からの批判を展開している。

 残念ながら、職業訓練については語られているが、企業内教育がとくに論じられているわけではない。しかし、知的教育にしろ、技能訓練にしろ、現状(当時の)が間違っていることを痛烈に批判している。ドラッカーの意見をまとめても冗長になるので、いくつか気になる表現を抜粋しておく。

 

●日本での産業労働者は−管理者でさえも−職を離れるその日まで、訓練を続けることが求められている。すべてのものは自らの職業について新知識や新技能を続ける。こうした継続的訓練の基礎は、はじめから体系的学校教育にあるのであって、職人的技能や徒弟制にあるのではない。

 

●教師は学校についての問題を“スタンダード”によって定義しようとするが、学校についての問題はそんなものではない。いいかえれば、それは既成の知識とか行動の●“学習に励む”ことでもなければ、“くり返し”が重要なのでもないのだ。これまですべての職業および労働について明白になったことは、学校問題にもあてはまる。必要なことは“うまく学ぶ”ことであり、“新しいことを新しい方法で学習する”ことである。

 

●学校教育で同様に重要なのは、知覚力(perception)と情緒の訓練および形成である。教育の最終目的をどう考えようと、これは必要である。訓練された知覚力と情緒は、子どもが成人して一個の人格をもつようになった際、生計の資を得る能力をもつために欠くことはできない。

 

●知識が仕事に用いられるようになると、継続的教育が必要となってきた。つまり、すでに経験を積んだ、業績のあるおとなを正規の勉強に何度も帰してやることが必要となった。そうなると子どもたちに、必要なものをいっさい与えてやろうとすることはまったく意味をなさなくなるし、ばかげたものとさえなる。10年ないしは15年後にどんな知識が必要となるかは現在わからない。今わかっているのは、これからの子どもにとって必要なのは、現在では知られていない新しい知識なのだ。卒業後10年から15年もたてば技術者はみな時代遅れになり、再訓練のため学校にもどらなければならなくなるのは、今日ではごく普通のことになった。

 

●現在の教育はあまりに多くの人間を必要としすぎる。教育はずっと少数の人間でなされるべきだ。教育の現状は1750年ころの農業のようなものである。当時は町に住む野民でないものを1人養うのに20人の農民を必要とした。教師の生産性はもっと高められなければならない。教育の効果をもっと高められることが必要だ。

 

 ドラッカーがこの本を書いた時は、副題にあるように「知識社会」が重要なキーワードだった。“情報銀行”が出現するだろうと予言している。インターネットがそれを実現させた。しかし、いまや「知識」を超えたと領域に人材教育は突入している。ドラッカーがこの本を書いた当時ですら、大学は知識を教える場から脱皮せねばならないことを指摘している。教育とは、時代とともに変わらねばならないと主張した。

 当時はまだアメリカでも企業内教育はさほど認知されていなかったのであろう。いま企業内教育の意義と方法論がもっと根本から問われなければならない。

 

author:平田 周, category:人材, 10:14
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企業内教育(最終回)
 

企業内教育(最終回)

                        平田 周

 

毎週、書評を書くため、人材関連の新刊書のリストを作っている(図書館流通センターの『週刊新刊全点案内』から)。もう2年以上も続けているが、毎週、20冊程度を拾うことができた。しかし、最近になって20冊を選ぶのが困難になり、人生訓のようなものや、経営論にかかわるようなものにまで範囲を広げざるをえなくなっている。それでも今週は、無理をしても16冊しかなかった。リーダーシップやシンキング、本の読み方や話し方、あるいはマナーといったもの、そして働くことの意義を説くものなどの人材関連の本の出版が目に見えて減ってきている。

出版社の編集部員はよく、企画がない時は、ビジネスのハウツウ本でごまかすという。ある程度、販売部数を確保できるのがこの種の本なのである。しかし、それすらも売れなくなったということであろう。ライターのほうももう書くネタがなくなってきたのかもしれない。一時は、精神科医のものがよく売れ、財務諸表の見方など、経理関係のものも人気があった。速読術も流行った。しかし、ハウツーに無限の方法があるわけではない。誰が書いても、定説や常識というのがあり、小説のようにいくらでも題材があるというわけではない。

 

しかし、そういった表面的なことではなく、はたしてこの種のハウツー本がそれほど役に立つのかという疑問がある。自分自身何冊かこの種の本を書いた者としてはかなり無責任に思えるかもしれないが、著者の自己流の経験をもとにした方法論で応用性の高いスキルが見につくとは思えない。

どうすればよいかという問題意識のあれば、これらの本がある程度解決のヒントになるだろうが、その前に、やる気がなければ読んでみても効果はない。実践するには理解と異なり、相当のエネルギーが必要である。人の勧める方法は、ヒントになるかもしれないが、自分なりの方法論を編み出さなければ、本当の力にはならない。美人女性から「自分はこうしてセールスナンバーワンになった」とそのやり方を教えられても、その人ならではの特質があり、真似ることはほとんど不可能である。ヒントになるとこはあるだろうが、実際に役立てるには、自分自身に相当の自覚と自分なりの方法論を持っていなければならない。

 

ハウツウ本の出版点数が減ったこと、売れなくなったということには、もっと深く考えるべきものがあるように思われる。企業研修でも、本当に効果はあるのかという反省が生まれつつあるのではないか。

教育会社や人事担当者は、効果のある方法だという自信はあっても、研修を受ける側に、目標が定められない、将来が不安だ、何かをしたいという欲望が弱い、いうなればやる気が起きなければ、時間と費用の無駄である。一時的には効果は見られるかもしれないが、持続はしない。植物を育てるのに、肥料や手入れは欠かせないが、土壌や気象などの根本的な環境が悪ければ、効果は消え去るであろう。

 

かつて、わが国の伝統的な人材育成は、現場において上司や先輩が教えてくれた。それは単なるスキルではなく、部下の精神性に強く影響を与えていた。幹部候補には、計画的なローテーションにより、いろいろな職場を経験させて、優秀なリーダーを育てた。職場の上司が、年功序列のおかげ昇進し、明らかに能力不足であっても、部下はそれによって上司を切り捨てることはほとんどなかった。いずれは自分がその地位につくという計算ができたし、上司をカバーすることで、上司は部下にさまざまな思いやりや配慮を与えた。優秀と認めた者には、自分を超えて出世することにさえ手を貸したのである。

いま求められているリーダーシップは、自分自身や企業の実績を高めるため、利益を上げるための方法論でしかない。部下のことに配慮しろといっても、それはリーダーが仕事をまっとうにできるための功利主義的なものでしかない。人間関係が大事だといっても、そこでもまた人間関係をよくするためのスキルを説く。スキルですばらしい本物の人間関係が生まれるわけはない。

 

欧米企業の人材育成で、働くこと、あるいは人間としての精神性について指導することはない。それは多くの場合、宗教の役割だったし、それぞれの人はそれによって形成された人格を持っているのが普通だった。日本人に宗教がない。学校がある意味でその任務を担ってきた。古くは寺子屋がそうだったし、近代においても地域は学校や教師に信頼を置いてきた。大学においては、教師と生徒との間には強い結びつきがあったし、学校内には知的な環境を通しての精神性がみなぎっていた。旧制高校はその典型だった。

大学は滅んだ。少なくとも、精神性を教える役割を放棄した。学校に生徒たちの心を満たすものがなくなった。

こうした状況において、残る期待は企業しかないと私は思うのである。なぜなら、学生たちも就職すれば人が変わる。大人になる。生活を支える真剣な場である。さまざまな問題、とくに将来を考えるようになる。こうした意識が芽生えた時期ほど、教育の効果は一層高まる。スキルを教えるのではない。どう生きるべきかを教えなければならない。

といって、上司や先輩たちがそれを教えることは難しくなっている。自分自身が方向性を見失っていることが少なくないからである。若者たちにどういう指針を与えてよいか見当がつかない。宗教家を連れてきて講和を聞かせても、若い人たちには退屈に思えるだけであろう。生きる世界が違う。成功した経営者が講師を務めても、わが国の成長期に活躍の場があった人たちの自慢話は若者たちに通じるわけはない。

企業の中で社員に精神性の教育をしようにも、指導者がいないのである。そこにこそ、いまの日本の人材教育の混迷の根本的な原因があるのではないか。まずできることは何か。社員研修はスキルではなく、企業は日本人を育てる場でもあることを経営者や人事担当者が自覚し、スキルと精神性と組み合わせた指導が必要であることが認識されることがとりあえずできることではないだろうか。

author:平田 周, category:人材, 02:34
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企業内教育(3回)
 

企業内教育(3回)

                        平田 周

 

 前回、「けっきょくは、時代変化の潮流が、あたかもプレートが大陸を移動させるように、人材育成や人材教育という“島”を動かしているのであろう。その底にある“プレート”の動きを知ることが必要だ」と書いた。

 若者の問題や人材教育の方法などについて書かれた本はおびただしい数にのぼる。個人向けに書かれたいわゆるハウツー本は、ビジネス関連の出版物のかなりのウエイトを占めてきた。しかし、これらのほとんどは、そうした“島”の動きの観察をベースにしたものであって、それらを動かす“プレート”の本質を訊ねるものは少ない。

 

 企業が人材育成を求めるのは、企業業績を伸ばすためである。日本人として望ましい人間を教育しようというわけではない。その点は、学校と違い、目的として明確である。しかし、それが日本人という人間性や、生きることの価値観と無関係でないのも事実である。リーダーシップについての企業の要望は強い。その裏には、わが国の若い世代の多くの者が、飛びぬけて目立つ存在であることを望まなくなっているということや、企業で働くことの価値を低めてしまったという事実がある。

 欧米企業の場合、アメリカでもヨーロッパでも、この働く人の精神性を人事の問題にする必要はほとんどないといってよいだろう。最初から、企業にそれほどの信頼を置いていないし、労働すること自体を嫌っているのである(人間が働かなければならなくなったのは、神が人間に罰を下したからだという信仰があり、実際に、50歳代で仕事からリタイアして、のんびり暮らすのを夢としている)。こうした人たちを企業の人材として活かす方法は明確である。働くことは好きではなくても、報酬を得るための代償として期待されるとおりに働かなければならないという契約的な考えは誰にも強く存在する。必要なのは、知識やスキルである。

 その点、日本人はまったく異質だといわざるをえない。就活学生にしても、就職する企業は結婚相手と同じように思っている。企業もまた、企業のことを思う人材を求める傾向を未だに強く残している。働いている社員たちには、労働と報酬を契約としてとらえる意識は薄い。会社の一員としてそこに存在しているという思いが強い。そういう思いすらないほど、自分と会社とは当たり前の関係なのである。

 

 いま欧米的な生き方、道徳性と、日本的なものという2つのプレートがぶつかり合っている地点に立っている。欧米プレーが日本プレートを飲み込むほど強くはないし、日本プレートも簡単に崩れてしまうほど弱くない。お互いが強ければ、衝突エネルギーは大きい。

 だからといって、プレートの移動を制御できるほどの力は誰にも与えられていない。アルキメデスが、自分に地球の外に立つ地点と長く丈夫な棒をくれるなら、地球を動かしてみせるといいった言葉を思い出す。

 人材論では、あたかも、若者の考えを教育で変えることができると信じているかのような意見がしばしば語られる。教育の意義や力を疑うわけではないが、プレートを動かすほどの力を今日の教育界や官僚、政治家に期待できるわけはない。ただ、プレートの衝突によるショックを和らげる対策はありうるであろう。日本プレートよりも欧米プレートが勝っていると結論するのも早計である。まだいずれが優勢であるかの判断はついていない。

 日本プレートの本質や動きだけでなく、欧米プレートの動きについてもしっかりと見定めなければならない。その衝突のメカニズムの解析やエネルギーの測定も必要であろう。そういう視点からの人材教育論は、専門ではないので知らないが、出版される本や総合雑誌の論文などを見るかぎり、論じられているものを目にしたことがない。

 

 かつてのように、欧米文明にあこがれる気持ちは日本人の間に薄れた。日本の経済成長が違いや格差を縮めたということも一因であろう。欧米の政治的貧困もまた欧米に対する失望を高めた。では、日本的なものへの固執は続いているのか。それもまた、日本文化の変質によって、日本的としたらよいのかわからなくなっている。

 若い世代は、欧米プレートに飛び移ることの魅力を持っているわけではないし、さりとて日本プレートへの信頼も失っている。感じているのは、2つのプレートの衝突のショックと混乱である。これまで長く日本プレートを信じ、その上で生きてきた年配者のような感じ方を持てといっても共感はできないであろう。

 さまざまなノウハウ本は、混乱の中で不安を募らせ、立ちすくむ者、右往左往する若者に、難を逃れ、進路を示すアドバイスをする。しかし、なぜそうしなければならないかの根本を示さないから、自らが進む道を切り開くだけの勇気と力を与えるものにはなっていない。

 

author:平田 周, category:人材, 08:50
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