RSS | ATOM | SEARCH
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

author:スポンサードリンク, category:-,
-, -, pookmark
基地問題で揺れる沖縄から
基地問題で揺れる沖縄から
平田 周
 
 地域のグローバリゼーシン・モデルを完成させたいと思って沖縄に201211月にやってきた。3年で完成させたいと思ったがはや2年半が過ぎた。事は思い通りにはならなかった。新しいことをゼロから始めて根付かせることは容易ではない。新しい英語学習法EdeMをここ沖縄で完成させ、本土に広める体制はようやく緒に就いた。日本の情報を世界に向けて発信をする拠点として新しいメディア(ポータルサイト)をつくる構想も、ミニアチュアに近い小さなものだが、まもなく実現しそうである。この2つを完成させて、沖縄3年間の作品となることを期す。
 
 沖縄には、製造業は発展せず、産物も限られる。中心となるのは、観光産業と建設業だが、ここからは大企業は生まれない。沖縄にある東証上場企業といえば、琉球銀行、沖縄銀行、沖縄電力、沖縄セルラー電話(KDDI)サンエー(小売)しかない。いずれも海外には縁がない。りゅうせき(石油販売)は沖縄の石油販売の中核だが海外からの輸入はない。地元で勢力を持つオリオンビールはようやビールの輸出に力を入れ始めたところである。ごくわずかの公共事業の大企業と
零細中小企業ばかりで、中堅企業が存在しない。
 本土からすれば、沖縄は基地もあり、他府県よりも国際的と思われがちだが、現実はまったく違う。国際人材に乏しく、著名人の国際意識は低い。中小企業の海外進出の意欲はきわめて限られる。
 
 沖縄では、「万国津梁」(ばんこくしんりょう)という言葉が至るところで使われる。沖縄の誇りである。1458年に1つの梵鐘が製作された。これが万国津梁の鐘と呼ばれるもので、現在も奇跡的に戦火を逃れ県立博物館に残っている。その梵鐘には漢文で次のような意味の文が刻まれている。
 「わが琉球は、南海のすぐれた場所に立地する。朝鮮の文化に学び、中国とは不可分の関係にあり、また、日本とは近しい間柄である。それらの国々のあいだにあって、海からわき出た蓬莱島のような島である。貿易船を操って世界の架け橋の役割を果たしており、そのためにわが国はすばらしい品々が満ちあふれている」(高良倉吉著『アジアのなかの琉球王国』より引用)。
 15世紀の琉球王国は、日本が戦国時代の群雄割拠で、中国と親密な関係を結び、繁栄していた。といっても、沖縄の産物を売ったり、輸入品が琉球王国内で消費されたりしたわけではない。中国のものを日本や東南アジア諸国に売り、逆にこれらの地域で仕入れた産物を中国に持って行くという、中継貿易である。
 沖縄が発展するにはこのモデルしかない。海外からの観光客も一種の貿易である。
しかし、受け入れ態勢は万全というわけにはいかない。市民の外国語力は弱い。
いまは「ハブ」という言葉がもてはやされている。航空貨物や宅急便、食料品などの東南アジアを相手とする集荷基地としての役割が増大しつつある。しかし、場所貸しに終わっているのはいかにも残念である。沖縄がこれをリードすべきなのだが、県は誘致歓迎のしか策がなく、新しい体制をつくる知恵や気力に欠ける。
 東京があっと驚くようなことをやろうと水を向けるが、誰からも反応がない。そのようなことはできないと思っているのか、やる気力がないのか。それとも東京にないようなものを考える知恵はないということなのか。
 
 沖縄が経済・産業で盛り上がれば、基地の問題は薄らいでくるのではないかと思ったが、基地使用の見返りの産業振興予算が、依存体質を強めてしまったと沖縄の人も言う。それが経済自立の意気込みを殺した。本土並みの経済回復はあっても、沖縄の産業が一気に成長するということは起こり得ないという気がする。
 沖縄で基地問題について、反対を唱える以外は黙っていたほうが得である。あえてこの問題は考えないようにしてきた。
 しかし、辺野古問題はいよいよこじれてきた。これからどうなるのか。
 沖縄の人は、当面の問題についての利害は考えるが、将来のことをシミュレーションしない。長期の戦略を持って我慢することをしない。
 
 辺野古の埋め立てが中止となれば、普天間はそのまま使用が続く。付近の住民の危険度は高い。といって、米軍に嘉手納基地だけを残して、全面撤退するよう交渉しても実現する可能性はいまのところほとんどない。
 普天間基地のある地域の人は基地がなくなることを望む。一方、辺野古の住民は、漁業関係者など、基地ができたほうが経済的に潤う。沖縄の中でも利害は対立する。
辺野古が断念されれば、普天間の住民や関係者は怒り、辺野古の住民は失望するに違いない。オール沖縄で、島民の全員が声をあげて、積極的に辺野古反対ということにはならない。
 那覇に居て、飛行機の爆音を聞くことはほとんどない。米兵を見かけることもない。
沖縄に米軍基地があるということさえ忘れそうである。頭の中で考えれば、広大な面積を米軍に支配されており、沖縄が不公平に犠牲を強いられえいるという屈辱であろう。基地のある地域の人意外は、実害を感じない。
 だから、沖縄の二大新聞が毎日のように新聞の大一面で辺野古反対の記事で呼びかけても、全島民の怒りとして炎上することはない。政府もそのことを当然知っていて甘く見ているのであろう。
 
 辺野古をやめて、普天間基地を存続させる。いまから始めて10年くらいの長期を見据えて、日本全体の世論を背景に、政府がアメリカと辛抱強く、かつ理路整然とした交渉を行うのがよいのではないかと考える。当面の不自由は我慢して、10年後に夢の実現を決意する。しかし、この考えには、大きな障害がある。日本全国に米軍基地反対の世論を盛り上げることは容易であない。巨大な力を持つアメリカを相手に、明治の外交官陸奥宗光がやったように、知略を使い、度胸を持って交渉する人物は日本政府にいないのではないか。
 沖縄の人たちは、そのことに怒りを覚える。しかし一方で、沖縄の人たちは何をしてきたのだろうかという疑念が消えない。
 
 
 
author:平田 周, category:社会, 11:23
comments(0), trackbacks(0), pookmark
右傾化する世界の中の日本
右傾化する世界の中の日本
                                平田 周
 
 ヨーロッパの東方拡大とロシアの反抗、欧米に対するアラブ社会の怨念、中国の覇権意識へのアメリカの戸惑い。その中で貧困をエネルギーにして勃興してきたイスラム国に代表されるテロ勢力。
 世界は、なんとなく世界各地で局所的に紛争が火を吹く現実に、防衛力を強化し、右傾化の傾向が強まっている。
 
 わが国では、安倍首相を中心に、自衛隊の活動範囲を世界に広げることを進めようとしている。特定秘密保護法、集団安全保障など、議会での多数勢力としてほぼ思いどおりに法案が可決し、右翼化への色彩を強めている。
 安倍晋三個人の思想が日本を動かしているということではなく、世界の右傾化潮流が安倍晋三を浮き上がらせているとみる。個人の力はそれほど強いものではない。日本全体が右傾化を、歓迎ではなくても、認める雰囲気にあるといえよう。
 恐いのは、日本人が海外で敵に襲われているのに見殺ししてよいのか。同盟国に万一のとき守ってもらうのに、その国が攻撃にさらされているときに、何もしないで見ていてよいのか。すべての情報が公開され、それが敵側の手に渡って不利を蒙るようなことがあってよいのか。わが国の固有領土なのに、尖閣諸島を中国が自国領土だとして勝手に振る舞う勝手に何もしないのか。
 
  そういう問題一つ一つを考えて答えを出し、それが是だとして決めて進んで行ったとき、ある日、なぜわれわれはこんなひどいところに来てしまったのだろうと後悔することにならないか。太平洋戦争は、誰が見ても間違いだった。こんなバカげたことをなぜ国民は許したのだ。後から見れば、誰もがそう思う。しかし、目の前の一つ一つの出来事に正しいと思われる答えを選らんだ結果、取り返しのつかない地点へと導かれてしまった。先を見ず、足元だけを見て、ここは大丈夫、この敷石はしっかりしていると確かめながら歩を進めて、いつの間にか崖ふちに来てしまったというのに似ている。
 
 頭を上げて、遠い先を見なければいけない。それはヴィジョンと呼ばれることもある。各政権はその都度、わが国が実現すべきヴィジョンをかかげる。しかし、国民はそれに対して白けた気分になる。絵空事と思ってしまう。美辞麗句で理想が書かれているにすぎない。キング牧師が行ったWe have a dreamの演説のような力強い響きは伝わってこない。
 問題が国民の中に一致して共有されていないからである。しかし、広く共感される問題、とくにそれが危機意識である場合、独裁的な施政者がそれを意図的に利用しようとすることが起きる。歴史上の悲劇のいくつかはそうした背景の下に起きた。
 
 人々は足元の安全を一歩一歩確かめながら進む。遠くにかかげられるヴィジョンは生命力を欠く。人々は自分自身の願いを持つ。けっきょくこの行進は、あてどなく彷徨いながら進んでいく。個人主義がいっそう隊列を乱す働きをする。しかし、人々は進む方向を強制されることを好まない。障害にぶつかるたびに、群れはこれまでとは別の方向をめざす。人が愚かなのか。人類の宿命なのか。
 
author:平田 周, category:社会, 16:41
comments(0), trackbacks(0), pookmark
カタカナ語のヘンなアクセント 「ライン」「ドラマ」「ネット」など

カタカナ語のヘンなアクセント 「ライン」「ドラマ」「ネット」など

平田 周

 

 多摩川河川敷で中学生が仲間によって殺された痛ましい事件はまだ記憶に新しい。この事件を報道するアナウンサーやキャスターが、村上遼太君が友だちとの交信に無料通信アプリ「LINE」(ライン)を使っていたことに触れていたが、このときの発音が気になった。

 「LINE」を「ライン」とアクセントを後ろに置く。英語であれば当然、「イン」である。同じようなことは、「ドラマ」や「ネット」などでも起きている現象である。若い人のクセというか、流行なのであろう。しかし、アウンサーまでがそれに従う必要ないではずだ。

 アクセンとだけでなく奇妙に聞こえるのがWebである。多くの人がこれを「ベ」と発音する。カタカナにしたとき、「ウェブ」と書くのが普通だが、【ウェ」(we)のせいだろうか、これが「ヴェ」あるいは「べ」になる。英語では明らかに「ウブ」である。「ウエブ」とすればよかったのに、「ウェブ」が通用するようになった(私はいまでも「ウエブ」と書く)。

 

 英語と違い日本語は単義語である。1つの言葉に1つの意味に使うことが多い。英語の場合は、ほとんどが多義語で、意味の多さは半端ではない。だから、先輩たちは工夫した。「ガラス」と「グラス」にしたり、「ストライク」と「ストライキ」と使い分けたりした。

 Lineも、地面に線を引くときは「イン」にし、通信アプリでは「ライン」と発音して区別する工夫なのだろうか。では「ネッ」はどうなのか。その必要はないはずだ。

 

 NHKにこのことを尋ねてみた。アナウンサーに、これらの言葉のアクセントについて指導はしていないということだった。各自が自分流でいいことになっているという。正式には、5年に1度、NHK放送文化研究所がアクセントについて定めることになっているという。それまでは、世間でどのように話されるかを観察する。

 なぜ、英語に近いアクセントにしないのかという質問には、原則的には人々が使っている様式に従うのであって、NHKとしてこれが正しい発音の仕方だということはしない方針とのことだった。

 私は、カタカナ語のアクセントが後ろに置かれることの違和感を説明したら、いまの若い人の傾向は、アクセントのない平坦な発音になっていると指摘された。私が後ろにアクセントがきていると感じるのは英語のアクセントと対比してそうなるのであって、実際はどこにもアクセントがないというのが正しいのかもしれない。確かに、日本語には強弱も、高低すらあまり強調しない、平べったい発音になる言語だ。

 

 言葉は、こうでなければならないと決めることはできない。人々の使い方で決まる。カタカナ語は、語源が英語であっても、日本語になったものだ。発音やアクセントが違うとわめいたところでしょせん意味はないのかもしれない。

author:平田 周, category:社会, 04:26
comments(2), trackbacks(0), pookmark
STAP細胞の小保方晴子はスケープゴート
STAP細胞の小保方晴子はスケープゴート
                      平田 周
 
 マスコミを騒がせたSTAP細胞事件も、人々の記憶から忘れられようとしている。先日、外国の著名な科学雑誌の日本版編集に長らく携わり、多くの科学者と親交のあるM氏から話を聞く機会があった。
多くの科学者が書く論文のかなりのものは、追試を行っても同様の成果が得られないものだという話だった。追試が行われるほどの内容はなく、知名度に欠けるものがほとんどなのだろう。怪しいデータのものもあるに違いない。ではなぜ学者は論文を書くのか。大学教で報酬を得ている学者であれば、年に何本か論文を出すことが義務づけられている。研究支援費をもらえば報告書を出さねばならない。 研究成果をともなった研究ばかりではない。苦し紛れに書かれたものもあるだろう。
 
  そういう意味では、小保方晴子のSTAP細胞の論文もそうしたものの1つであれば何も問題はなかった。有名になりすぎた。本人は、Nature誌に論文掲載など考えてもいなかったに違いない。騒がれていなかったら、多くの研究員と同様、日々研究所に出勤し、実験を行い、25日に給料をもらうサラリーマンだったろう。だから、実験の記録もずさんだった。細かいチェックはなかったし、監督者もいないただの研究労働者だった。
問題は、どのような経路でES細胞が混入したのかである。偶然に入ったのか、それとも誰かが意図的に混入したのか。小保方研究員が成果を出すため意図的に入れたということにしたいのが当事者やマスコミである。
 
 しかし、小保方研究員は自分が意図して入れたとは一切言わない。マスコミはなんとか彼女の不正ということにしたいらしい。マスメディアの科学担当の記者、とりわけ女性記者は、絶対に彼女の不正をあばいてやると意気込んでいるらしい。同性に対する妬みのようにも思われない。日本人は謝らないことを嫌う。あっさり誤れば許すくせがある。
 
 真実はわからない。しかし、小保方研究員が意図的にやったようには思えない。それほどの名誉心も、出世意欲もなかったろう。上昇気流に乗って高みに舞い上がった一匹の蝶ようだったものではないか。
 世の中にはたくさんのインチキ科学論文が氾濫している。知られずにいれば、何も起こらずず、サラリーマンである研究者は日々の仕事にいぞしんでいればよい。M氏の話では、海外の科学者の論文も追試不能の研究はますます増える傾向にあるのだという。
専門性が高く、事業に結びつかないような他人の研究内容をチェックすることなどやる人はいない。それを行うにはが時間と金がかかる。けっきょく研究者の倫理でしかないが、サラリーマンとして研究に従事して生活費を稼いでいれば、インチキはなくならないであろう。有名になったばかりに、小保方氏は1500万円の返済を求められ、研究者としての生命を絶たれた。そういう運命だったのか。なんとなく可哀そうに思えてくる。
 
 
author:平田 周, category:社会, 06:58
comments(0), trackbacks(0), pookmark
2人の技術者

2人の技術者

                    平田 周

 

 テレビ番組「プロフェショナル」で、市原英樹という人のことを知った。大成建設に勤める技術者である。東京の赤坂プリンスホテルがいつのまにか消えた。作業のための防護壁を作るでもなく、粉じんも騒音もない。まるで静かに地中に沈んでいくかのようだった。

 このまったく新しい解体の工法を考え出したのが、市原氏だという。世界が驚いたという斬新な方法だが、市原氏は化学が専門の人で、無害の建築用接着剤の開発などを行っていた。あるとき、新設されたビル解体の工法開発グループの責任者に抜擢された。高度経済成長時代に建てられた多くの高層ビルが寿命期を迎える。都会に立つビルの解体をいかにして周囲に迷惑をかけず、短期間に、低コストで実現できるかが課題だった。

 誰も想像しないような方法だった。世界が、日本人でなければできないものだと賞賛した。しかし、成功させるには、いろいろな試行錯誤が必要だった。問題が起きるたびに仲間と知恵を絞った。採算がとれるようコストも削減しなければならない。内外から多くの賞をもらい、これからの時代に役立つ。

 

 この人のことを知って、すぐにノーベル賞をもらった中村修二氏のことを思った。面識はないが、1990年代半ば、ユニークな経営や技術の中小企業を紹介する仕事の中で、日亜化学を知った。青色発光ダイオードの技術開発の挑戦に可能性を見た。四国なので訪ねていくわけにもいかず、電話で中村氏と話した。素朴に質問に答えてもらったのが印象に残っている。いまは、同氏の言動にいろいろと批判が向けられているが。当時、青色発光ダイオードの研究では、加工が難しい窒化ガリウムは将来性がないと学会でも除け者扱いだった。

 しかし、見事製品化され、ノーベル賞受賞にまで至ったのだが、中村氏は日亜化学を相手どり、発明・開発への貢献に対する報酬を要求する裁判を起こした。結果的に8億円が支払われることになったが、会社という組織の中にあって個人の功績を主張する中村氏の言動には批判も多い。

 

 市原氏は、謙虚に(本心であろうが)、自分一人の功績ではない。みんなが力を合わせた結果であり、会社という場があってはじめて成し得たことだと語る。与えられた仕事を黙々とこなしながら、問題解決に力を注ぎ、たまたまいい結果が生まれたにすぎないという考えである。定年退職とともに、自分の務めは終わったという気持ちで満たされるに違いない。

 一方の中村氏はいまなお日本の企業だけでなく、日本という国が研究者に報いないことを批判している。自分のためだけでなく、研究者のことを思ってのことであろうが、満ち足りた気分にはなりきれていない。

 

 建築という総合力が求められる仕事と、黙々と実験に明け暮れる研究室の仕事を同様に比較することはできないが、日本人の感情としては、市原氏の態度を好むだろうと思う。世界の奇跡ともいえる日本産業の発展は、市原型の努力の集積によるものというべきであろう。

 しかし、会社のために滅私奉公のスタイルは薄れつつあるのも事実だ。自分の力で成功や幸福をつかみたいという考え方が強くなっている。市原氏のような生き方がなお日本の産業界に遺伝子として残っているのか。それともアメリカ型の個人主義に変化していくのか。まだ判断がつかないでいる。

 

 

author:平田 周, category:社会, 06:32
comments(0), trackbacks(0), pookmark
ピケティの『21世紀の資本』
ピケティの『21世紀の資本』
 
5,500円もする経済学の本が品切れになるほどの売れ行きになっている。トマ・ピケティが書いた『21世紀の資本』である。どうしてこんな本が飛ぶように売れるのだろうと不思議だ。2014年7月26日号の『週刊東洋経済』で特集が組まれ以来、話題になっていたせいもあるが、アメリカでポール・クルーグマンなどが絶賛し、それもあってアメリカで大ベストセラーになったという前宣伝が効いたのかもしれない。この本が出る前から、「資本主義」がどうなるかという問題がわが国でも話題になっていた。だが、貧富の格差が世界的にいっそう広がっているという事実を多くの人が切実にとらえているからに相違ない。
 
 700ページもの大著を読む自信がなかったし、5,500円を払うことにも躊躇があり、買って読もうとは思わなかった。しかし、この本について書かれた薄い解説書が発売されたので読んでみた。1つは池田信夫著『日本人のためのピケティ入門』(東洋経済新報社)、もう1つは苫米地英知著『「21世紀資本論」の問題点』(サイゾー)である。
 前者は、中立的な評価だが、原著のきちんとした紹介ではなく、著者自身の経済についての問題意識や考えが述べられている。後者は、最初から終わりまで批判的で、ピケティの間違いを指摘することに狙いあある。
 
 『21世紀の資本』について、二人は次のように要約する。
 
【池田】 統計の不十分な19世紀以降のデータを各国の税務資料などをもとにしていろいろな方法で推定し、ほとんどの時期で不平等は拡大しており、戦後の平等化した次期は例外だった。「資本主義では、歴史的に所得分配の格差が拡大する傾向があり、それは今後も続くであろう」というのがピケティの主張である。
 
【苫米地】20カ国以上におよぶ主要な国々の「所得と資産」の関係を過去200年にもわたる資料で調べた結果、資本収益率は常に経済成長率を上回ることがわかった。これは資本主義そのものに経済格差が広がる要因が内包されていることを意味する。経済格差を是正するには、資産への累進課税が必要であり、しかもグローバルに課税しなければ意味がないとピケティは提唱する。
 
 苫米地氏は、批判の主要点として以下のようなことをあげている。
 
■経済学は自然科学に近い数理的理論を命とするもので、ピケティは経済学を歴史学に包括させ、経済学を殺してしまった。
■結論のr>g (r=資本収益率、g=経済成長率)は当たり前のことである。
■ピケティが解決策とするグローバルな資本課税は、当人も言っているように実現不可能だが、累進課税は不公平の拡大であり、資本主義を破壊する行為である。
■ピケティは、22歳で博士号を取得、MITの准教授になったほどの秀才だが、社会人経験がなく、『21世紀の資本』は数理的経済モデルを欠く。
 
 苫米地氏も、民主主義が資本主義に隷属するものであってはならないとするピケティの考えには賛成する。格差社会の拡大も是正されなければならいということでは同感するが、資本に対するグローバル累進課税では問題解決は不可能だと断じる。
 なお、苫米地氏は、この大著のアマゾンのキンドル版を1日で読んだとしている。その程度に易しいのか、苫米地氏の並外れた速読力・理解力なのか、原著を見ていないのでなんともいえない。
 
 内容的な価値はさておいて、日頃、本をあまり手にすることがないような人までこの本を買うため書店に走ったという現象のほうを憂慮する。まだ日本人にそれほどの知的好奇心が残っていたという意味では喜ぶべきだが、なんだか流行を追う、浅薄さを感じる。それほど急いで内容を知らねばならないものではなかろう。この本以外に、もっと読まれてしかるべきものがあるようにも思う。
 同じ資本主義について語る本としては、水野和夫著『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社新書 2014/3)のほうがずっと役に立つ(この本もよく売れているが)。この本が英訳されて世界中で読まれればいいのだが。資本主義の欠陥もさることながら、資本主義自体がもはや歴史的な役割を終えつつあるとしたら、『21世紀の資本』は無意味になってしまうのではないか。
 
 ピケティのおかげで確信したのは、第二次大戦から今日までの70年余の経済が、200年という近代の歴史の中できわめて特異な期間だったということである。その特異な期間の中の現象だけをいくら数理論的に論じ、定理らしきものを見つけても歴史的な普遍性はないだろう。苫米地氏は、ピケティの歴史学的な手法を経済に取り入れたことを邪道と否定するのだが。
 

 
author:平田 周, category:社会, 09:02
comments(0), trackbacks(0), pookmark
英語と出版
英語と出版
 
                        平田 周
 
 ブログを載せるのは40日ぶりです。2冊分の本の原稿執筆もあったのですが、周期的に襲われる、何のためにブログを書くのだろうと疑問に思いはじめたら、気力が失せてしまったというのが正直なところです。日記のように自分のために書くのであれば、公表する必要はないし、他人に向けて書いているだとすれば、それは驕りではないかと思えてきたりします。
 それでも、空白があったにもかかわらず、毎日、アクセスがあるのを知り、誰かに会って雑談をしていると思えばいいのではないかと思いなおし、ふたたび書きはじめました。愚者の独り言です。
  --------------------------------------------------------------------------------------------
 
 『誰でもすぐに英語でメールが書ける』、『「書く」ことから始める英語学習』という仮のタイトルをつけて、斬新な英語学習法についての原稿を書き上げた。いつもなら出版社に企画を見せて、了解を得てから書くのだが、今回は、問題が「グローバル人材育成」を求める時代だし、誰でもわずか2日の講習でしっかりとした英文メールが書けるようになるという話だから、どこかで取り上げてくれるだろうと思い、出版社も決めず書きあげた。
 しかし、ある新聞社系出版社の親しい編集長に見せたら、冷水を浴びせられた。「売れない」という一言だった。グローバル時代が到来し、グローバル人材が求められ、多くの人が英語が話せたらと思っているはずだから、読者は期待できるのではないかと反論したが、ダメだった。
 
 編集長は40代の聡明、かつ良心的な人で、これが売れるかどうか、書店などに打診して可能性を確かめてくれたらしい。どこの書店も英語の本は売れないという返事だったというのが断られた理由だった。書店が売れないというものが売れるはずがない。
 出版された本が書店に並ぶには、原則、取次店を通さねばならない。何冊の本が、どの書店に送られるかは、すべて取次店の判断次第である。小さな出版社が本を出しても、書店には並ばない。店頭に置かれていなければ売れるわけはない。 
 書店では、取次から届いた荷物をほどいて陳列するのだが、6カ月以内に取次に戻さなければ、買い取ったことになるので、売れそうもない本は面倒だから店頭に並べずに、そのまま返送してしまうものもある。日の目を見ることはない。それでなくても、出版社は売上げの低下をカバーするため、出版点数を増やし、書店では平積み販売が普通になったことから、店に本を置くスペースがない。
 
 書店が歓迎するのは、タイトルが読者の気を引くこと、著者の知名度が高いこと、内容がシンプルであること、文章の密度が低いこと(図表が多いほうがよい)などである。だが、書店にとくにこの本を売りたいという意図があるわけではない(書店員が勧めるPOS広告広はあるが)。本が売れるかどうかは、やはり読者次第である。
 人々の活字離れが言われるようになって久しい。携帯電話が通勤電車の中での読書を奪った。インターネットでの情報は視覚性を重視する。長い文章を読む習慣は失われていく。もう若い人たちは、小難しそうな本を読む習慣を捨ててしまったかのようだ。
 
 英語についての本は売れないと断言された。なぜだろうと思い、編集長に質した。自分の職場を考えても、英語を必要と感じるときはまったくないと言った。とりわけ30代の人たちは、海外にあこがれを持たない。ビジネスのグローバル化は進むが、英語ができる人が携われればよいので、そういう人はビジネスマンの1割にも満たないのではないか。
 では、なぜ英会話学校が林立し、派手な広告のスピードラーニングと銘打つCDが売れるのか。そもそも英語が必要ないのであれば、学校で、しかも小学校から英語を教える意味はないではないか。なぜTOEICの点数が新卒採用で重視されるのか。日本人の海外発信力のなさが問題にされるのか。疑問は尽きない。
 
『ずるいえいご』(日本経済新聞出版社)が5万部以上売れた。表紙からして、まんがの絵がついており、中身も、日常のちょっとした会話のフレーズ20ばかりをマンガで説明しているだけである。自分が言える簡単な表現をすればよいのだという著者の考えは間違ってはいない。「一目置く」というのは「彼を尊敬している」と言えばいい。「大人語をすてればいい」と教える。
 この事実に、私は頭を抱える。これだけで英語ができるようになるとは思えない。英語ができる人が、英語は簡単だよと言っているだけだ。それにしても、ここまでやさしくしないと本が売れないということに愕然とする。
 
 書物という世界は崩壊した。知の伝導者であった出版社は死んだ。他のメディアと融合し、さまざまな情報伝達の手段がからみ合うハイパーメディアの時代になったのであろう。ごみの山は火をつけにくい。くすぶるだけだ。しかし、あるとき突然、予期しなかったところに大きな炎が立つ。
 
  
 
author:平田 周, category:社会, 08:21
comments(0), trackbacks(0), pookmark
1億白痴化は出版に及ぶ
1億白痴化は出版に及ぶ
                                                        平田 周
 
 久方ぶりに東京の出版社をいくつか訪ねて、「75歳まで可能な稼ぎ力」の原稿を見せた。どこも、これでは売れないと断られた。年金だけではもはや暮らせないことは明らかである。多少は老後のために貯金をしているからといって、家の修理費も必要になるし、病気にでもなればひとたまりもない。
 しかし、高齢者が貧困の恐怖にさらされていることを、政府もマスメディアも口にしない。内閣府が出す『平成26年度高齢社会白書』を見ると、暮らしに満足している高齢者は7割としている。貯蓄高は平均で2千万を超すとう統計を示す(家計調査より)。貯蓄高三千万円以上の人が25%にもなる。マスメディアは長寿社会を賛歌し、豊かな高齢者をキーワードにする。
 出版される本は、『老後を美しく生きる』とか、
 
 ある大手新聞系出版社の編集長は、「厚生年金で十分暮らせるではないか」と言った。国民保険の受給額が6万円に満たない額であることをご存じない。豊かな高齢者は、80歳以上、強いていえば75歳以上。それも大企業や官僚として定年まで働いた人たちである。バブル崩壊で大量の解雇が行われ、そのために特別加算された退職金を手にした。
 これから退職金はますます目減りするだろう。転職経験があれば、いっそう少なくなる。厚生年金に加入しないベンチャー企業もある。介護保険や健康保険なども増額される。政府が目算するようにインフレが進行すれば、その打撃は年金生活者を襲う。
 
 政府は、昨年4月から雇用継続の義務づけを実施した。約3/4が継続採用を選んだ。給料は7割以下になる。ボーナスが支給されないケースもある。若い管理職の人たちに指示されながら働くのは居心地は悪いに違いない。
 政府はこれで高齢者の働きぐ口を確保したとご満悦かもしれないが、60歳定年で、改めて60代をどう生きるかを考えるほうがよかったのではないか。再就職で、実力を発揮すれば70歳まで雇用される可能性は高い。なまじ65歳までの雇用延長によって、その後の仕事がない。
 65歳で引退し、年金暮らしができるなら結構だが、そうはいかない。いずれ年金始終開始が70歳になる可能性は高い。
 
 65歳以後、どうやって年金以外の収入を得ることができるのか。誰も考えない。提示できる方法がないのである。現役の人たちにはその恐怖がわからない。60歳になっても、早く仕事の重圧から解放されたいという気持ちに支配されてこのことは脳が受け付けない。子供の養育費はかからず、夫婦二人なら年金があれば、なんとかなるのではないかと、淡い期待がある。
 それどころか、老後生活に困らない幸せな人たちが書いた「美しく生きる老後生活」の本を買って読む。60歳になっていない人が、なぜ高齢生活のことを書けるのだろう。大学教師は、年金をもらいながら、70歳まで学校に勤務して給料をもらえる身分である。
 
 年金受給者は現在約3千万人いる。これから続々と高齢者予備軍が仲間入りしてくる。大変な事態が来るような予感がする。だが、誰も、あまりそのことを意識しない。高齢者を助けてくれたデフレ経済からの脱却を経済立て直しの目標に掲げる。
 大勢の高齢者、高齢者予備軍の人たちに、こうすれば、年金以外の所得を得ることができるという知恵を教えたいと思って本の原稿を書いた。しかし、出版社の編集担当者と話していて、とても本にはなりそうもないことがわかった。
 
 若い編集者には、高齢者の経済生活など、想像できる世界ではない。しかし、それ以上に、読者がそのような本は買わないというのである。中には、60歳以上は、出版社にとって重要な読者層になると言う編集者もいたが、大勢は関心を示さない。高齢者の比率はすでに全人口の4分の1を占める。しかも、読書に親しんできた層である。読者離れした若い世代とは違う。
 ではなぜ売れないのだろうか。
 
 ある出版社の編集長が語ってくれた。わが社にとって、60歳以上の読者をターゲットとして重視していきたい。しかし、難しそうな本は読まない。テーマを絞って、即現実的な内容でないと売れないと言う。何より驚いたのは、未来のことは考えないのだという指摘だった。いますぐ役立つ内容でなければならない。
 いま身近にある問題について、極力平易に、しかも問題を考えさせるのではなく、解決策を示すことが肝心だと教えてくれた。優しく書いたつもりだが、私が書くものは、問題をいっしょに考えるスタイルである。頭から、こうしなさいと命令調で書くのが嫌いだ。広範な視点で問題をとらえ、過去を振り返り、未来を考える。もうそういうスタイルの本は売れないのだと指摘された。
 
 私が好んで買う本は、頭をひねりながら読まなければならないようなものが多い。なのに、書くとなれば、理屈を省いて、まるで子供に語るように書かなければならないというのは辛い。
 出版社は売りたいから、そうした読者を迎合する。読者はますます平易なものになって、噛む力を失う。味のよい流動食のようなものしか口を通らなくなる。
 読書の醍醐味は、著者とともに問題を考え、知らない世界の知識を得、未来を予測することにあったのではないか。
 
 このままでは、知の殿堂だった本の世界が、低俗なテレビ番組と同じになってしまうだろう。子供が欲しがるものを何でも買い与え、しつけもせず、好き放題にすればどのような子供に育つのか。親なら知っている。
 しかし、出版社は、子供がダメになっても知ったことではない。本を買ってくれさえすればいいのである。
 テレビが普及し始めた頃、評論家の大宅壮一は言った。「テレビは1億白痴化を生む」と。いま「本が1億総白痴化を生む」
 
 「白痴」という言葉は差別語になる恐れがある。そのせいか、ワードの漢字変換では出ない。白痴と正常の区別がなくなっているのかもしれない。
 楽しければ、どうであれそれでいいのではないか。人生は苦労するためにあるものではない。しかし、高齢者の生活貧困は、人生の最後を不幸にする。若い頃の貧困は、エネルギーとなり、反発力を生み出す。しかし、高齢者にはすでにその気力を失っている。「美しい老後」なんて、一部の高齢者のものでしかない。
若い人たちとは違う。経済的にゆとりがなければ、美しい生活は望めないのではないか。
 
 
 
author:平田 周, category:社会, 12:27
comments(0), trackbacks(0), pookmark
沖縄の台風を経験する

沖縄の台風を経験する

                                平田 周

 

 昨年は、いくつか大きな台風が日本を襲ったが、なぜか沖縄本島から少しはずれ、それほど強い台風を経験することはなかった。しかし、7月8日に沖縄本島に接近した台風8号は、気圧930ヘクトパスカル、最大風速50メートル、最大瞬間風速70メートルとされ、50年ぶりの強力な台風となり、暴風特別警報が出された。

 本島の西100キロメートルあたりを台風の中心が通過したが、台風の東側はむしろ雨風が強くなる。8日の午後から風が強くなった。

 

 アパートの5階の窓から外を見ていると、目の前をぱっと白い煙のようなものが通過する。それが隣のビルの壁にぶつかると、さっと水が幕のようになって飛び散る。まるで消防車が放水しているかのようだ。白い煙のように見えたのは雨だった。上から降るのではない。雨は横から吹き付ける。横なぐりの雨という表現があるが、その表現はあてはまらないように思えた。スピードである。

 風速50メートルがどのようなものか。危険なので外には出なかったが、風の音でその違いがわかった。ある程度強い風にはビュンビュンと形容する。さらに強いと、ゴーゴーと言う。しかし、50メートルの風が吹くとき、その音はドスーン、ドスーンである。空気の大きな塊がどっとぶつかる。

 

 東京都内でもいくつか台風の直撃を経験したが、上陸したという情報のあと、足早に千葉方面に向かって過ぎて行った。時速、40キロメートルと速度が上がっていて、車なみに通過した。恐いものを見たいというのに似た子供のような期待はいつも裏切られていた。あれほどテレビが警戒を呼び掛けていたのにと、裏切られたような気持ちになる。

 しかし、沖縄の台風は、那覇市に居て、20時間近く続いた。発達中の台風の若い力か。大洋の上に顔をのぞかせる平坦な小島のせいか。風はさえぎられるものもなく自由気ままに吹く。比較的雨量の少ない沖縄地方だが、台風8号は400ミリの雨と、1時間に80ミリの豪雨を残して通り過ぎて行った。

 

 沖縄でも、50年ぶりとか、これまでに経験したことのないといった表気がなされていたから、今回の台風は特別のものだったのだろう。それでも、沖縄全体でさほど大きな被害はなかった。さすが台風慣れしている沖縄だと思った。

 那覇市内では、街路樹の枝がかなり折れていた。沖縄にはガジュマルやたこのきといった樹木に見られる「気根」のある植物を見かける。亜熱帯ならではだが、気根というのは、幹の途中から何本もの根が出て、それが地面に達し、根になる。まるで幹を支える支柱のようである。倒れないように工夫したのか、うまく考えたものだと思う。なかなか名前を覚えられないのだが、電柱のような太い幹にほんのわずかな枝と葉しかついていないものもある。台風の強い風に強いのだろうと思う。

 被害が少なかったのは、樹木も人も、台風に慣れているからかもしれない。

 

 7月にこれほど強い台風が来るのはめずらしいようだ。今年は、台風の当たり年かもしれない。沖縄の海水温が例年よりも高いらしい。

 猛烈な台風8号も、九州に上陸する前の東シナ海でかなり勢力を弱めた。梅雨前線を刺激して大雨が予想されるが、東京に着く頃はもう衰弱しているであろう。

東京は恵まれている。沖縄や九州は、やはりその防人となる運命なのか。その東京も、直下型地震と富士山の噴火には脅かされている。

author:平田 周, category:社会, 05:31
comments(0), trackbacks(0), pookmark
コミュニケーションの光と陰
コミュニケーションの光と陰
                                 平田 周
 
 企業教育会社のサイトのために「コミュニケーション」について寄稿文を書いた。いま、コミュニケーションという言葉が氾濫している。大学の学科名は、その時代の流行を示すものである。かつては、「国際」「人間」というのがバズワードになっていたが、いまは「コミュニケーション」である。
 「コミュニケーション」というのは、太古からあるものだし、ヒト以外の動物(植物でも存在するとされる)でも、きわめてありふれたものである。それがいまなぜ、これほどまでに関心を呼ぶのか。
 その背景には、「コミュニケーションが重要になった」というポジティブなものではなく、そこになんらかの支障や問題が存在することを暗示しているようである。注目すべきは、コミュニケーションが問題になっているのは、わが国だけでなく、アメリカにおいても見られることである。2014年度卒業予定の大学生をg対象にした職業意識に関するアンケート調査で、「リーダーシップ」を抜いて、「コミュニケーション」がトップにランクされた(Achiever社調査)。
 
 一般に認識されているコミュニケーションのネガティブな問題は、世代間の意思疎通である。言葉や表現に違いが生じているということの背景には、生活のスタイルや価値観、人生観の変化があることは言うまでもない。
 しかし、その一方で、若い人たちの同世代間でも、コミュニケーションに問題が生じている。いじめや誹謗中朝を恐れて、他人の反応にきわめて敏感になっている。ひんぱんにコミュニケーションをとらねば、つながりを失う。しかし、言葉が予想外に問題を起こしかねない。その軋轢に、若い世代は神経を使う。
 
 これは、ICTの進歩が原因している。PCに始まって、携帯電話、スマートフォン、タブレットと、コミュニケーション・ツールは多様化した。そのベースにはインターネットがある。インターネットも、ブラウザーの開発が一躍普及を促し、いまはツイッター、SNSの時代である。
 ビジネスにおいては、まだメールが中心だが、若い世代はコミュニケーションの世界を拡大させている。アメリカでは、リクルートにSNSをどう使うかが人事担当者の課題になっている。社員間のコミュニケーションも、メールからさらに新しいものに変わるであろう。
 それがまた新たな世代間ギャップを生み出す恐れがある。そしてこれらの新しいコミュニケーション手段は、利点のほかに、いろいろな副作用を生むリスクもある。
 

 ウクライナや中国、タイなど、世界各地で激しいデモや、内紛が起きている。その裏には、インターネットがある。民衆に問題意識の火をつけ、デモへの参加を駆り立てるのに、これまでにない手段になっている。
 国家間でも、盗聴やハッカーによる妨害など、これまでにはなかった新たな紛争の様式が広がりつつある。無人飛行機もまた、無線による高度のコントロールが実用化を進めた。コミュニケーション技術の進歩の負の側面と、過剰な利用が、今後さらに問題を拡大していくに違いない。

 大学のコミュニケーション学科が何を教えているのかよくわからない。わかりやすい文章の書き方を教える講座がある。外国語教育がこの中に含まれているケースもある。しかし、それが新た大人のための読み書きの練習なのだとしたら情けない。
 コミュニケーションの便利な手段の開発と多様化が、かえってコミュニケーションを阻害するということなのだろうか。そのために、世界や民衆がうまくコミュニケートできなくなれば、それは第二のバベルの塔になりかねない。
 
 
 
author:平田 周, category:社会, 09:15
comments(0), trackbacks(0), pookmark