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『教養の力』を読む
 

『教養の力』を読む

                       平田 周

 

 斎藤兆史著『教養の力 東大駒場で学ぶこと』(集英社新書 2013/4)を読んだ。私たちの周りには、普段よく使っている言葉で、意味はよくわかっているようで、それが何かを突き止めようとすると、分からなくなるものがある。「時間」がその例だが、「教養」という言葉もその本質はつかみにくい。

 めずらしく、「教養」という問題を真正面から取り上げている本書を、興味を持って読んだ。

 

 第1章 「教養」は変質しているか

 第2章 学問/知識としての教養

 第3章 教え授ける/習得する行為としての教養

 第4章 身につくものとしての教養

 第5章 新時代の教養

 

 「1991年に大学審議会の答申を基に大学設置基準が大綱化された直後、多くの大学の教養学部が廃止・解体され、長い歴史を有する日本の教養教育はかつてない受難の時期に突入することになった。(中略)大綱化と相前後して進められただお学院重点化政策もこの流れに拍車を掛けた。

その結果、「教養」と名のつく部局や組織は、さまざまな形での統廃合ののち、その名に代えて「人間科学」「国際」「言語文化」「現代文化」「情報(科学)」といった言葉、あるいは「コミュニケーション」をはじめとする外来語をその旗印にあげることになったのである。同時に、それまでくすぶっていた教養教育批判の機運が一気に高まり、古典的な教養主義は日本の各地で敗走に次ぐ敗走を続けた。「教養」と友好関係にある隣国「文学」も、かなりの量の流れ弾を浴びるありさまであった。


 1990年、まだ駆け出しの英語教師であった私は、ある医薬理系私立大学の、まさに解体直前であった「一般教養学科」の専任講師の職を辞し、東京大学に教養学部に就職した。日本の国立大学のなかでのちに「教養」の名を守り通すことになる数少ない学部の一つである。(中略)

 さまざまな近代兵器を駆使し、実用・実学主義を報じつつ目新しい概念を振り回して教養を潰さんと向かってくる敵に対し、ときおり矢を放ち、矢がつきれば石を投じて抵抗を見せながら城に籠ること20年、そろそろ兵糧も尽きようかというところになって、戦況は意外な展開を見せ始めた。

 教養教育批判の声が弱まったと思ったら、それどころか高等教育の場で「教養」「リベラル・アーツ」、あるいは「初年時教育」などといった言葉を目にすることが増えてきたのである。」

 

 以上は、本書のまえがきの冒頭にある著者の自己紹介である。これを原点にして、明治以来の「教養」の思想、そして著者が考える新時代が求める「教養」を思考する。

 

「教養」に大きく違った3つの側面をあげる、。

 

1.「学問」や「知識」としての側面

2.「教え養う」「教え授ける」、さらには自ら何かを「身につける」「習得

する」という側面

3.学問や知識を身につけることによって備わる「心の豊かさ」「理解力、あるいは人間的に「品格」という側面

 

 本書は、これら3つの側面について詳しく論じ、「共通知が崩壊し、玉石混淆の情報が身の回りにあふれる現代にあって、私たちは何をどのように吸収し、最終的にどのようなものを教養の名の下に身につけるべきだろか」を問う。そして、新時代の教養を支える柱として次の3つをあげる。

 

1.知的技術

2.バランス感覚(センス・オブ・プロポーション) 

3.古典的な倫理、「人格」の理念、そしてその核となる「善」

 

 今日の時代を象徴するものとして、情報処理の進歩をあげる。かつては博覧強記が学者の美徳の1つであったが、現代においては、膨大な情報の中から、自分に必要な、質のいい情報を選び出す能力そのものが教養の一部になっている。いくら情報検索が高速化したからとはいえ、情報の意味を解釈するのは人である。

 情報処理能力が現代的な教養の一部ではあるが、現代的な教養を成立させるためには、どこかに伝統的な、「古典的」教養を保持しているべきだと著者は考える。

 

 現代の教養として、「センス・オブ・プロポーション」を著者は重視する。原子力発電所、ダム建設、クジラやイルカの捕獲、脳死判定や臓器移植などなど、人々を賛成・反対運動に駆り立てる問題は身の回りにあふれている。これらの問題には、賛否どちらかの立場が絶対的な正義であることはない。

 一般的に、ディベート好きのアメリカ社会では、二項対立で議論を行うことが多い。そのようなディベートをむしろ頭の中で行い、さまざまな価値を比較検討しつつ、個々の場面に応じて妥当な結論を引き出すイギリス的な「センス・オブ・プロポーション」の理念のほうが、日本的な教養と相性がいいと著者は考える。

 

3つ目に、現代的教養の最終的な表われとして、古典的教養でも重視されていた「人格」をあげ、ここが「教養」のもっとも普遍的な部分であろうと結んでいる。全人教育としての教養教育を東京大学において実践している。

 

英文学を基礎とする英語教師が、現代における「教養」とは何かを語るものであり、やはり視野の狭さを感じる。英語による授業や英語力認定試験対策を重視する大学の姿勢を、かつての教養教育のあり方とは相容れないものだとする。教養が、高く、深い知力の訓練が、大学における教養学部の基本だとする。

 

英文学の知識を活かして、尊敬するという作家の作品から言葉を引用しながらの「教養論」は教えられるところが少なくないが、自己中心型の見方に偏している傾向が強い。それに東大という自負が見え隠れする。

「私は、アマチュアとはいえ、将棋は4段なので、自分より弱い人間が将棋の本を出したとすれば、とてもそのようなものを読む気にならない」と言い、「英語については多くの人が一家言を持っているためか、専門家でもない人が平気で英語学習書を書いたりする」と批判し、「日本の英語教育・学習の歴史は200年以上。そう簡単に「独自」の学習法など編み出せるものではない」と述べている。


  私自身ちょうどいま、英語を必要としない職場の管理職の人たちのための英語学習法について原稿を書き終えたところなので、素人の書いた本として軽蔑されることになるのであろう。

しかし、将棋が自分より格下であっても、すばらしい考えを持っている人もいるかもしれない。自分がうまくなれないのはなぜかを語ることも、反面教師の役を果たすこともある。まして英語力を駆使してビジネスを戦っている人たちの経験と学生を相手に英語を教える人とくらべて、英語について(英文学ではなく)語る資格に差を設けてよいのだろうか。

「教養」についてこうあるべきだと唱える著者は、はたして「教養人」といえるのだろうか。自ら教養の3大要素の1つ「バランス感覚(センス・オブ・プロポーション)」に反するのではないか。

 

教養について、いろいろ引用しながら語っていることに好感を持ちながら読み進め、第5章の終わりの部分でこのような意見に接して、いささかがっくりした。

 

 

author:平田 周, category:社会, 09:33
comments(1), trackbacks(0), pookmark
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Comment
我が国の教育者は、教育改革という大きな課題を、子供だましの英語の勉強でお茶を濁そうとしている。
我が国の大の大人は失言により、国際舞台で大恥をかいている。
日本人は、正しい考え方を知らない。
だから、個性を発揮することもままならない。

過去の内容を反省し、それを根拠にして未来社会への強い決意を示せば偉大な指導者になる。
ただの犯人探しに徹すれば、大江戸・捕り物帳の時代に舞い戻る。
世界は、建設的な態度を示す人間に期待を寄せている。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/



noga, 2013/05/25 2:38 PM









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