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ブログ

ブログ

 

 このブログが始まったのは2010年の3月だった。英語教育の問題を考える集まりに出席して、広く「言葉」の問題について考えを語る場所をつくろうと提案し、J&E GroupJapan and English、通称JandE)という名にした。最初は、寄稿する人がいたが、話せても書くこととなると面倒なのか、誰も書かなくなった。始めた以上止めるのも癪なので、一人で書き続けてきた。それでも書く頻度は次第に減り、昨年の12月はついに1回も書かなかった。

 

 書けなくなったわけではない。いったい、ブログとは何なのか、なぜ書くのかがわからなくなったのである。ブログは日記みたいなものだという人がいる。日記なら人に読まれることを前提にはしない。人に教えるためなのか。それなら私にそれほどの能力もないし、そうしたいわけではない。自分のためでも、人のためでもなければ、何なのか。

 人間は、人に何かを伝えたい、話をしたいと考える動物ではある。ブログを書くのも同じことか。しかし、それなら人を喜ばせ、興味を引く話題を選ばなければならない。だが、私にはお笑い芸人のようなエンターテイメントの才がない。

 

 初期の目的のように、いろいろな人が意見を述べる場所になればいいのだが、なかなか寄稿してくれる人が見つからない。原稿料が入らなければ魅力がないという人もいるし、書くなら自分のブログを立ち上げるという人もいる。

 5年目で止めるのはキリがいいかとも考えたが、いささか残念でもある。これからも続けることにしたが、やはりなぜブログを書くのかの疑問への答えが必要である。ものを書くには、想像であれ、目の前に読み手を意識せねばならない。そこで、自分の中にいるもう一人の自分に話すことにすることを思いついた。自問自答である。自分自身は偏屈で、無謀なところがあるが、もう一人の自分は真面目で慎重な性質である。考えたこと、疑問に思うことを彼に話そう。

author:平田 周, category:-, 05:59
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初詣
初詣
 
 元旦の日、那覇市にある波之宮と沖宮いう神社に行った。由緒が書かれた説明によれば、いずれもヤマトから伝わったもので、豊穣をもたらしたことが始まりらしい。15、6世紀の頃にさかのぼる。波之宮は海に突き出た岩の上にある。沖宮は奥武山公園の中の小山の上にあり、海からいささか離れているが、港の工事のためにこの場所に移されたようで、元は同じように海のそばにあった。
 
 波之宮には深夜に詣でたが、忘年会の流れか、若者が多かった。誰もが神殿に置かれた賽銭箱にお金を投げ入れ、神妙に手を合わせて祈る。ほとんどの人は今年1年の無事を願っているのであろう。受験の合格、商売繁盛を祈願している人もいよう。家族の健康を気遣う人もいるに違いない。
 祈るという行為は、キリスト教であれ、イスラム教であれ、すべての宗教に共通する。おそらく言語が発達する前から、狩猟などで獲物がとれるようおまじないのようなことが起源で始まり習慣として形式化したのであろう。
 試合で戦い合う二人の選手が共に必勝を願ったとき、神様はどちらの願いを選ぶのだろうかと思う。選ぶ理由はないはずだ。神様には関係のない力量の違いもあるはずだ。では偶然が自分に有利になることを期待して祈るのだろうか。
 
 ものみの塔というキリスト教の一派がある。聖書の教えを忠実に守ることを主義とする。外科手術で輸血を拒むことでも知られる。二人連れで家を回って、ものみの塔という雑誌を配りながら布教する。何度かその説明に耳を貸したことがある。そのときは、彼らが答えに窮するような質問をする。答えられないと、教会に戻って調べてからまた来ますと言う。
 しかし、絶対に答えを持って来ない質問がある。災害で、神様はなぜ信仰のある人も、信仰のない人も区別なく命を失わせてしまうのかという問いである。神にはわれわれ人間には知り得ないお考えがあるのだと説明する人もいた。
偶然ではないのか。確率の問題ではないのか。それとも宿命か。一人一人の運命を神が決めるわけはないだろう。
 
 それでもが神殿に向かって手を合わせて祈っている。一瞬だが、祈ることによって精神の集中ができる。強い思いが信念となり、事を実現する可能性はあるのかもしれない。お百度参りはそうであろう。願いが叶えられると信じているわけではないが、唱えておけば聞き届けられるかもしれないという淡い期待なのか。
 祈っているとき、おぼろげながら相手を意識している。キリスト教信者の祈りは、神と対話している意識が強い。願いもあるが、反省の気持ちが強い。「われらの罪を許し給へ」である。神という存在を意識することで、自分という存在が認識される。神がなければ、自分から他者を見る意識しかない。神によって、見られる自分がそこに存在する。
 仏教では、現世を穢いものとし、欲望を捨てることの大切さ、他のあらゆるものへの憐みの大事さを自覚させる。願望は存在しない。だから年頭にお参りして祈願するにはまったくふさわしくないといえよう。
 
 意味はまったく理解できないお経を聞くことで、迷い悩むことの無意味を悟らせる仏教の教えのように、祈ることは、神と対することによって自分自身を意識させるしくみなのかと思う。自覚すれば、神という相手をつくらなくても、自分自身を自ら観ることが可能になる。信仰としての神は必要なくなる。自分と自分との対話である。自分は何者なのか。どう生きるべきなのか。もしかして、そのもう一人の自分が神なのか。
 
 そんな面倒なことを考える必要はない。誰もが素朴に、そして習慣として神社に来て、型どおりに柏手を打ち、頭を下げて無事を祈る。それだけのことだし、それでいいではないか。
 
 それにしても、なぜ賽銭を投げ入れるのだろうと思った。神社への寄付なのか。現実はそうかもしれないが、そう思って賽銭を入れているわけではないだろう。拝観料のようなものか。
 『なぜ日本人は賽銭を投げるのか』という本の中で、著者の新谷尚紀氏は、金銭を汚らわしいものとして捨てるという行為が始まりだと説明している。そうであれば、賽銭を入れることは、金銭の欲望を捨てますと態度で示しながら、一方で商売がうまくいきますようにと祈るのは矛盾するのではないか。
 もともとは意味があったものが、慣習となり、伝承となり、形として引き継がれていいく。どの民族にもそのような特有の習慣が残っている。それが文化というものか。
 元旦に神社に詣でる。意味があろうがなかろうが、それは日本人の習慣なのだ。
だから伝えられてきたとおりにやっておけばいいのだ。
 
author:平田 周, category:生活, 14:55
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日記 2014
日記 2014

 書いてみようかなと思ったことはあったが、結局、生まれてこのかた、日記をつけたことはなかった。しかし、2014年、日々起きることについて記録を残してみようと決心した。ただ出来事を記すだけではつまらない。出会った人、起きたことを題材にして、その日、思ったことを書いた。横線当用日記というのを買ってきた。1頁1日。文字数にして400字余り。365日書けば、全部で14万字程度になる。400字詰め原稿用紙にすれば約350枚。ちょうど単行本1冊分に相当する。タイトルは『2014年』。長らく生きてきた人生の一断片になるだろう。
 
 1年だけで日記をつけるのは終えるつもりだった。そして、365日、毎日、1頁、書き続けた。希望に心をときめかした日もあったが、思ったとおりに言は進まず、断崖を前に立ちすくむことの連続でもあった。ある事をなそうとする目標があった。気持ちとしては、頂上に続く岩壁を一人攀じ登る気持ちに近かった。快適に高度をかせげた日もあったが、オーバーハングに阻まれて、一歩も進めず、小さな岩棚で凍る一夜を過ごす羽目にもなった。足を置いた小さなステップが崩れ、わずかな手がかりで辛うじて墜落を免れたこともあった。
 そして、1年が過ぎた。頂上には達しなかった。未だに、頂上直下の鋭く切り立った岩場に行く手を阻まれている。水も食料も残り少ない。眼下に目をやれば、登ってきた身の毛がよだつような垂直の岩壁の下に、登り始めた地点が小さく見える。なんで登る気になったのだろう。登るべきではなかったという悔悟が頭をかすめる。いや、登らざるを得なかったのだ。そういう宿命だったのだと自分に言い聞かせる。とにもかくにも、下りるわけにはいかない。頂上は手がとどきそうなくらい近いところにある。
 
 思えば、7月15日の出来事で、それまで順調と思えた登攀は行き詰った。数メートル落下した。死にはしなかったが、傷は思った以上にひどかった。これでもう終わりかと幾度か思った。しかし、この岩壁を攀じて頂上に立ちたいという欲望が勝った。わずかな足がかり、手がかりを求めて、上に上にと身体を運ぶ。
エネルギーを消耗するが、それでもわずかな高度しかかせげない。
 もうダメかと思うなか、年の瀬の最後の最後になって、新たな活路を開くことになりそうな人三人の人物に会えた。これで最後の壁は乗り越えられるかもしれないと思った。勇気が湧いてきた。
 
 思い返せば、2014年の前半は、順調に進んだ。しかし、後半は一転して、苦しみに変わった。ここを突破すれば頂上に辿りつくと思う場所がいくつかあったが、阻まれた。そして、いま新たな可能性が目の前にある。今度はうまくいくだろうか。これまの経験から、楽観的な期待は禁物であることをいまは知っている。ただ目の前にはる小さなホールドを手でつかみ、わずかなステプに足を置いて身体をほんのわずかでも上に持ち上げる行為を繰り返すしかない。
 ここで1年が終わった。頂上直下のオーバーハングの根っこにある小さな平らな場所に身を横たえ、西に傾く月を眺めている。もうすぐ夜明けがくる。少し明るくなったら、登り始めよう。突破口は目の前にある。寒い。風もきつい。しかし、今日の天気はよくなりそうだ。
ここで2014年も日記は終わった。そして2015年が始まった。
 
author:平田 周, category:生活, 05:03
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『世界を操る支配者の正体』を読む
『世界を操る支配者の正体』を読む
                      平田 周
 
 なるほどそうだったのか、と理解して読み終える本、あまり得るところがなかったな、といささかがっかりする本というのがあるが、読んだ後になっても、どうも気がかりで、心にまとわりついて離れないという本もある。馬淵睦夫著『世界を操る支配者の正体』(講談社 2014/10)もその種のものだった。
 ウクライナ危機の裏にある真実を解説、世界を操っているのは、国際金融勢力
であり、ナショナリズムを掲げるロシアのプーチン大統領を追い落とし、世界制覇を狙う陰謀なのだというのである。
ただの評論家が書いたものであれば、うがった見方だ、そういう見方もあるなと読み捨てられるのだが、著者がウクライナ大使も務めたこともあり、ロシア、アメリカでも大使館勤務をした経歴の持ち主と聞けば、まんざら根拠がないわけでもあるまい。なるほど、そう考えれば納得がいくということも多々ある。しかし、異端的な意見である。どこまでが真実かどうかわからない。
 
 目次を紹介しておこう。
 
第1章 ウクライナ危機は世界最終戦争の序曲
第2章 プーチン抹殺のシナリオ
第3章 ロシアを支配する者が世界を支配する
第4章 国際金融勢力対ロシアの200年戦争
第5章 道徳と民族を破壊する4人の洗脳者
第6章 ディアスポラ化する人類
終 章 歴史認識大戦争に備えよ
 
 話は、ウクライナ政争の実体が何かの解明から始まる。それは、アメリカ、正しくはアメリカを自由に動かせる国際金融勢力が仕組んだものだというのである。
 結論的にいえば、世界制覇を狙い、グローバリゼーションの実現を計る国際金融勢力が、最後に残るナショナリズムのロシアを崩壊させようと仕掛けていると暴露する。
 
 国際金融勢力とは何者なのか。アメリカのFRBの株主にもなっていると想像される、ロスチャイルド、ゴールドマンサックス、JPモルガンなど国際銀行家たちをあげる。国際金融勢力のそうした活動はいまに始まったことではない。すでに200年も続いており、25年前のソ連崩壊もまたこの勢力が仕かけて実現したものだという。
  その思想的背景はユダヤ思想である。国を失い世界各地に離散せざるをえなかったユダヤ人(ディアスポラ)が、グローバリゼーションを進める。簡単に国をおとしめる力を持っている。アメリカもまた彼らに乗っ取られたのだという。もともとアメリカは建国以来、アメリカの精神はピューリタニズム、フロンティア・スピリットをかかげる東部のエスタブリッシュメント WASPだった。そのアメリカはすでに乗っ取られた。そして世界をアメリカ化することを狙っている。
 
 アメリカ化の手段ははっきりしている。まず民主化である。これにより簡単に政権を操ることができる。次に民営化、そして3段目がグローバル化である。
実際の支配にはマネーが一番である。国家に金を貸すことによって国を自己利益のために動かす。アメリカをはじめ中央銀行が政府から独立しているのもそのためだとする。アメリカの経済を支配するFRBは株式会社であり、その株主は公開されていない。
 
 中国もすでにその影響下に入った。残るは、ロシアだけである。プーチン大統領はこれに真っ向から闘う。いま国際金融勢力にとって最も邪魔な存在は、ナショナリズムで立てこもるプーチン大統領であり、これを抹殺しなければならない。
ウクライナ政争を仕掛けた狙いは、プーチン大統領をおびき出し、国際世論でもって批判し、ヨーローッパ、日本を見方につけてロシアに対し経済制裁を加えることにある。ヨーローッパも日本も、経済制裁は何の得策にもならないが、これに従わざるを得ない。
 国際経済勢力は、第三次世界大戦を起すことすら躊躇しないであろう。戦争は彼らにさらに大きな利益をもたらす。
 
 ユダヤ思想にとって重要なのは、世界統一(グローバリゼーション)とその思想の根拠となるナショナリズムとその象徴となる国の存在である。それがイスラエルである。
 世界でナショナリズムとグローバリゼーションを併せ持つ国は、日本しかない。プーチン大統領が日本に対する特別の思いを抱くのは、そこにロシアのあり方のモデルを見るからである。経済制裁による打撃はロシアにとって大きい。産業は育っておらず、石油・天然ガス資源の輸出しか依存するものがないロシア経済はあまりに脆弱である。日本の技術力、工業力をロシアで活用し、見返りに石油・天然ガスを日本に売る。これがプーチン大統領の描く青写真である。
 日本としては、友好国アメリカに追従せざるを得ない。しかし、いまプーチン大統領を助ければ、悲願の北方領土返還の可能性が高まる。アメリカを怒らせないようにしながら、どうロシアとの関係を深めていくか。これが安倍政権に課せられた仕事である。
 
 オバマ大統領は中間選挙で大敗を喫し、勝った共和党にもエースはいない。アメリカは弱体化した。それでも世界はアメリカ、そしてドルを中心に動いている。その原動力になるものがあっても不思議ではない。
 その見えざる勢力がグローバリゼーションを拡大させ、国という秩序を崩壊し、弱肉強食の世界をつくり、貧富の格差を大きくさせているというのであれば、グローバリゼーションが人類統一の理想の実現という夢に浸っているわけにはいかなくなる。
 わが国は、ナショナリズムとグローバリゼーションを有史以来、うまくバランスさせてきた。だから、この問題はあまり深刻に感じない。しかし、世界はいまナショナリズムとグローバリゼーションのせめぎ合いの様相を呈しているといわれれば、そうである。イスラムの問題もそうした観点で見れば、また新しい視野が見えてくるような気もする。
 この本をどう読むか。それは読者に委ねられている。
 
author:平田 周, category:思想, 05:41
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日本を、東京を離れて見る
日本を、東京を離れて見る
                               平田 周
 
 今月末で、沖縄に単身で移ってきて丸2年が経った。単身赴任といっていも、会社から沖縄勤務を命じられてきたのでもないし、田舎住まいをして余生を楽しむというのでもない。新しいことを沖縄で試みてみたいと思った。
 沖縄より北海道のほうがいいよと勧めてくれる人がいたが、グローバルの問題を考えていたので、アジアに近い沖縄が有利と考えた。基地問題にからみ、政府からの産業振興予算も他府県に比べて格段に多い。暖かいということは、生活費の軽減になる。140万人という人口はそれなりの市場規模だし、小さな島であり、本土から離れているという立地的な特徴も魅力だった。
 
 2年経って、成果が上がったか。正直、思惑は大きく外れた。だが、いくつか成果はあった。機械翻訳を使う英語学習法 EdeMを沖縄で生まれた画期的な英語学習法として東京に紹介することができた。
 知的資産のほとんどは、東京から地方に流れるという構図である。沖縄でつくられた犹妻″が、東京、さらには本土の市場を席巻するという可能性を実証してみたかった。これが地方の時代に不可欠なことだと考えたからである。
 地方発は、何も東京だけではない。もっと大きな世界という市場がある。沖縄を世界に向けての情報発信基地にするという構想は、残念ながら県の関係者の理解が得られず、未だに芽が出ていない。
 あれやこれや考えると、思ったことの10分の1も果たせなかった。あと3年かければと思うが、そこまで気力がもつかどうか。
 
 沖縄に独り住んでいて、普通には味わえない経験をした。1つは、本土(東京)を離れたところから見ることができたことである。同じことは外国でも同じだが、沖縄という距離がいい。遠く離れすぎていると遠景にぼんやりと日本が見えるだけだし、近ければ離れている実感がない。沖縄からは、本土全体が視野にあって、かつ必要な細かいことがよく見える。行こうと思えば、飛行機で3時間足らずである。格安航空を使えば、緊急でも1万円で行ける(60歳以上)。
 上京すれば、仕事のスケジュールを実に蜜に立てることができる。1日に少なくても4つのアポをこなせる。相手が、沖縄から行くというと、都合を無理にでも合わせてくれるからである。1カ月分の人に会う仕事を1週間でこなせるといっても過言ではない。
 
 もう1つは、犖鋲″である。引きこもりではないが、毎日、毎日、人に会うのがわずらわしくなる(家族も含めて)。沖縄に来て、精力的に地元の人に会ったが、いろいろな理由から収穫はなかった。最近では、めったに人を訪ねない。相手から会いたいといってくることもない。黙って家に居れば、誰とも会うことはないのである。この孤立した気もちというのは、現代社会においてはなかなか得難いものである。隠遁者に近い。何日も人に会わずにいると、頭が透き通ってくる感じがする。
 といって孤独感はない。インターネットのおかげである。メールがたくさん届く。読まなければいいし、返事を書くこともない。何か言いたいことがあれば、ブログに書くこともできる。人にメールを出せば、返事も来る。若い人たちが神経を使うように、大勢の人と爐弔覆っている″のである。
 
 ロング・ヴァケーションをとって、家族とリゾート地で仕事から離れて過ごすのもいいし、家族との絆を強めるためにも大事なことだ。しかし、たった独りで人にも会わず、何日かを過ごしてみるという経験は、楽しくもあり辛くもあるビジネス人生のなかで、価値があるように思う。
 
author:平田 周, category:思想, 05:19
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英語と出版
英語と出版
 
                        平田 周
 
 ブログを載せるのは40日ぶりです。2冊分の本の原稿執筆もあったのですが、周期的に襲われる、何のためにブログを書くのだろうと疑問に思いはじめたら、気力が失せてしまったというのが正直なところです。日記のように自分のために書くのであれば、公表する必要はないし、他人に向けて書いているだとすれば、それは驕りではないかと思えてきたりします。
 それでも、空白があったにもかかわらず、毎日、アクセスがあるのを知り、誰かに会って雑談をしていると思えばいいのではないかと思いなおし、ふたたび書きはじめました。愚者の独り言です。
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 『誰でもすぐに英語でメールが書ける』、『「書く」ことから始める英語学習』という仮のタイトルをつけて、斬新な英語学習法についての原稿を書き上げた。いつもなら出版社に企画を見せて、了解を得てから書くのだが、今回は、問題が「グローバル人材育成」を求める時代だし、誰でもわずか2日の講習でしっかりとした英文メールが書けるようになるという話だから、どこかで取り上げてくれるだろうと思い、出版社も決めず書きあげた。
 しかし、ある新聞社系出版社の親しい編集長に見せたら、冷水を浴びせられた。「売れない」という一言だった。グローバル時代が到来し、グローバル人材が求められ、多くの人が英語が話せたらと思っているはずだから、読者は期待できるのではないかと反論したが、ダメだった。
 
 編集長は40代の聡明、かつ良心的な人で、これが売れるかどうか、書店などに打診して可能性を確かめてくれたらしい。どこの書店も英語の本は売れないという返事だったというのが断られた理由だった。書店が売れないというものが売れるはずがない。
 出版された本が書店に並ぶには、原則、取次店を通さねばならない。何冊の本が、どの書店に送られるかは、すべて取次店の判断次第である。小さな出版社が本を出しても、書店には並ばない。店頭に置かれていなければ売れるわけはない。 
 書店では、取次から届いた荷物をほどいて陳列するのだが、6カ月以内に取次に戻さなければ、買い取ったことになるので、売れそうもない本は面倒だから店頭に並べずに、そのまま返送してしまうものもある。日の目を見ることはない。それでなくても、出版社は売上げの低下をカバーするため、出版点数を増やし、書店では平積み販売が普通になったことから、店に本を置くスペースがない。
 
 書店が歓迎するのは、タイトルが読者の気を引くこと、著者の知名度が高いこと、内容がシンプルであること、文章の密度が低いこと(図表が多いほうがよい)などである。だが、書店にとくにこの本を売りたいという意図があるわけではない(書店員が勧めるPOS広告広はあるが)。本が売れるかどうかは、やはり読者次第である。
 人々の活字離れが言われるようになって久しい。携帯電話が通勤電車の中での読書を奪った。インターネットでの情報は視覚性を重視する。長い文章を読む習慣は失われていく。もう若い人たちは、小難しそうな本を読む習慣を捨ててしまったかのようだ。
 
 英語についての本は売れないと断言された。なぜだろうと思い、編集長に質した。自分の職場を考えても、英語を必要と感じるときはまったくないと言った。とりわけ30代の人たちは、海外にあこがれを持たない。ビジネスのグローバル化は進むが、英語ができる人が携われればよいので、そういう人はビジネスマンの1割にも満たないのではないか。
 では、なぜ英会話学校が林立し、派手な広告のスピードラーニングと銘打つCDが売れるのか。そもそも英語が必要ないのであれば、学校で、しかも小学校から英語を教える意味はないではないか。なぜTOEICの点数が新卒採用で重視されるのか。日本人の海外発信力のなさが問題にされるのか。疑問は尽きない。
 
『ずるいえいご』(日本経済新聞出版社)が5万部以上売れた。表紙からして、まんがの絵がついており、中身も、日常のちょっとした会話のフレーズ20ばかりをマンガで説明しているだけである。自分が言える簡単な表現をすればよいのだという著者の考えは間違ってはいない。「一目置く」というのは「彼を尊敬している」と言えばいい。「大人語をすてればいい」と教える。
 この事実に、私は頭を抱える。これだけで英語ができるようになるとは思えない。英語ができる人が、英語は簡単だよと言っているだけだ。それにしても、ここまでやさしくしないと本が売れないということに愕然とする。
 
 書物という世界は崩壊した。知の伝導者であった出版社は死んだ。他のメディアと融合し、さまざまな情報伝達の手段がからみ合うハイパーメディアの時代になったのであろう。ごみの山は火をつけにくい。くすぶるだけだ。しかし、あるとき突然、予期しなかったところに大きな炎が立つ。
 
  
 
author:平田 周, category:社会, 08:21
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1億白痴化は出版に及ぶ
1億白痴化は出版に及ぶ
                                                        平田 周
 
 久方ぶりに東京の出版社をいくつか訪ねて、「75歳まで可能な稼ぎ力」の原稿を見せた。どこも、これでは売れないと断られた。年金だけではもはや暮らせないことは明らかである。多少は老後のために貯金をしているからといって、家の修理費も必要になるし、病気にでもなればひとたまりもない。
 しかし、高齢者が貧困の恐怖にさらされていることを、政府もマスメディアも口にしない。内閣府が出す『平成26年度高齢社会白書』を見ると、暮らしに満足している高齢者は7割としている。貯蓄高は平均で2千万を超すとう統計を示す(家計調査より)。貯蓄高三千万円以上の人が25%にもなる。マスメディアは長寿社会を賛歌し、豊かな高齢者をキーワードにする。
 出版される本は、『老後を美しく生きる』とか、
 
 ある大手新聞系出版社の編集長は、「厚生年金で十分暮らせるではないか」と言った。国民保険の受給額が6万円に満たない額であることをご存じない。豊かな高齢者は、80歳以上、強いていえば75歳以上。それも大企業や官僚として定年まで働いた人たちである。バブル崩壊で大量の解雇が行われ、そのために特別加算された退職金を手にした。
 これから退職金はますます目減りするだろう。転職経験があれば、いっそう少なくなる。厚生年金に加入しないベンチャー企業もある。介護保険や健康保険なども増額される。政府が目算するようにインフレが進行すれば、その打撃は年金生活者を襲う。
 
 政府は、昨年4月から雇用継続の義務づけを実施した。約3/4が継続採用を選んだ。給料は7割以下になる。ボーナスが支給されないケースもある。若い管理職の人たちに指示されながら働くのは居心地は悪いに違いない。
 政府はこれで高齢者の働きぐ口を確保したとご満悦かもしれないが、60歳定年で、改めて60代をどう生きるかを考えるほうがよかったのではないか。再就職で、実力を発揮すれば70歳まで雇用される可能性は高い。なまじ65歳までの雇用延長によって、その後の仕事がない。
 65歳で引退し、年金暮らしができるなら結構だが、そうはいかない。いずれ年金始終開始が70歳になる可能性は高い。
 
 65歳以後、どうやって年金以外の収入を得ることができるのか。誰も考えない。提示できる方法がないのである。現役の人たちにはその恐怖がわからない。60歳になっても、早く仕事の重圧から解放されたいという気持ちに支配されてこのことは脳が受け付けない。子供の養育費はかからず、夫婦二人なら年金があれば、なんとかなるのではないかと、淡い期待がある。
 それどころか、老後生活に困らない幸せな人たちが書いた「美しく生きる老後生活」の本を買って読む。60歳になっていない人が、なぜ高齢生活のことを書けるのだろう。大学教師は、年金をもらいながら、70歳まで学校に勤務して給料をもらえる身分である。
 
 年金受給者は現在約3千万人いる。これから続々と高齢者予備軍が仲間入りしてくる。大変な事態が来るような予感がする。だが、誰も、あまりそのことを意識しない。高齢者を助けてくれたデフレ経済からの脱却を経済立て直しの目標に掲げる。
 大勢の高齢者、高齢者予備軍の人たちに、こうすれば、年金以外の所得を得ることができるという知恵を教えたいと思って本の原稿を書いた。しかし、出版社の編集担当者と話していて、とても本にはなりそうもないことがわかった。
 
 若い編集者には、高齢者の経済生活など、想像できる世界ではない。しかし、それ以上に、読者がそのような本は買わないというのである。中には、60歳以上は、出版社にとって重要な読者層になると言う編集者もいたが、大勢は関心を示さない。高齢者の比率はすでに全人口の4分の1を占める。しかも、読書に親しんできた層である。読者離れした若い世代とは違う。
 ではなぜ売れないのだろうか。
 
 ある出版社の編集長が語ってくれた。わが社にとって、60歳以上の読者をターゲットとして重視していきたい。しかし、難しそうな本は読まない。テーマを絞って、即現実的な内容でないと売れないと言う。何より驚いたのは、未来のことは考えないのだという指摘だった。いますぐ役立つ内容でなければならない。
 いま身近にある問題について、極力平易に、しかも問題を考えさせるのではなく、解決策を示すことが肝心だと教えてくれた。優しく書いたつもりだが、私が書くものは、問題をいっしょに考えるスタイルである。頭から、こうしなさいと命令調で書くのが嫌いだ。広範な視点で問題をとらえ、過去を振り返り、未来を考える。もうそういうスタイルの本は売れないのだと指摘された。
 
 私が好んで買う本は、頭をひねりながら読まなければならないようなものが多い。なのに、書くとなれば、理屈を省いて、まるで子供に語るように書かなければならないというのは辛い。
 出版社は売りたいから、そうした読者を迎合する。読者はますます平易なものになって、噛む力を失う。味のよい流動食のようなものしか口を通らなくなる。
 読書の醍醐味は、著者とともに問題を考え、知らない世界の知識を得、未来を予測することにあったのではないか。
 
 このままでは、知の殿堂だった本の世界が、低俗なテレビ番組と同じになってしまうだろう。子供が欲しがるものを何でも買い与え、しつけもせず、好き放題にすればどのような子供に育つのか。親なら知っている。
 しかし、出版社は、子供がダメになっても知ったことではない。本を買ってくれさえすればいいのである。
 テレビが普及し始めた頃、評論家の大宅壮一は言った。「テレビは1億白痴化を生む」と。いま「本が1億総白痴化を生む」
 
 「白痴」という言葉は差別語になる恐れがある。そのせいか、ワードの漢字変換では出ない。白痴と正常の区別がなくなっているのかもしれない。
 楽しければ、どうであれそれでいいのではないか。人生は苦労するためにあるものではない。しかし、高齢者の生活貧困は、人生の最後を不幸にする。若い頃の貧困は、エネルギーとなり、反発力を生み出す。しかし、高齢者にはすでにその気力を失っている。「美しい老後」なんて、一部の高齢者のものでしかない。
若い人たちとは違う。経済的にゆとりがなければ、美しい生活は望めないのではないか。
 
 
 
author:平田 周, category:社会, 12:27
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「75歳までの稼ぎ力」
「75歳までの稼ぎ力」
                                              平田 周
 
 今月初めから書き始めた、高齢者の生活についての単行本の原稿がようやく脱稿した。タイトルは、『65歳からの稼ぎ力』にしようか、『75歳まで可能な稼ぎ力』にしようか迷っている。いずれにしろ、65歳から以降の収入をどうして得るかがテーマである。まだ出版社は決まっていない。2,3の出版社に原稿を送って読んでもらうことにした。
 
 年金だけではもう暮らせないといわれる。しかし、高齢者の暮らしがどうなっているのか。内閣府が出す『高齢社会白書』と、厚生労働省が作成する「年金制度基礎調査』などがあるが、これらの統計からは、本当の姿が見えてこない。『高齢社会白書』は、高齢者の2012年の貯蓄残高が平均で2,209万円だとする(総務省の「家計調査」から)。ちょっと信じがたい数字だが、3,000万円以上が25.9%
いることになっているから、これを除外して平均すれば1,000万円台に落ちる。しかし、これはあくまで平均であって、1,000万円以下は、100万円刻みで、まったくフラットなのである。6.4%100万円以下を除けば、どの階層も3%台となっている。これでは、平均をとっても意味がない。
 
 それよりも混乱してしまうのは、厚生省の「年金制度基礎調査」の数字を見ると、まったく違った状況が見えてくる。こちらのほうは、年金受給者3,000万人から無作為に2,300人を抽出して調査したものだから、全世帯を対象とする「家計調査」より精度は高いはずである。
 これによると、年金受給額が200250万円という人で、貯蓄残高が300万円未満とう人が33.1%を占めている。500万円未満にすれば45.1%で、ほほ半数を占める。これなら実態に近い感じがする。
 
 では年金として、年にどれだけもらっているのか。公的年金・恩給の年額受給額が50100万円が19.4%100200万円が28.8%200300万円が36.6%300万円以上は8.4%しかいない(年金受給額が低い女性を含む)。
 年金以外の収入の比率はどうか。6569歳で51.1%7074歳で34.5%7579歳で23,3%となっている。どのようにして、この収入を得ているのだろうか。就業状況を調べた数字がある。
 就業している人(不詳を除く)は6569歳で38.4%7074歳で27.3%7079歳で15.8%である。このうち自営業は6569歳の14.9から、84歳までの11.7%までほとんど変わらない。
 
 政府は昨年4月から60歳から65歳までの雇用継続を企業に義務づけた。第1年目では、約3/4が雇用継続を選んだようだ。年金受給をしていないことが条件だが、給料は7割以下になると聞いている。
 年金を受給している高齢者の生活に必要な支出額は、平均で月額24.8万円、7579歳でも23.7万円となっている。年額にすれば300万円程度である。
 
 これでは豊かな老後生活とはいえない。しかし、「高齢社会白書」が載せる内閣府の調査では、暮らし向きについて「まったく心配がない」が18.0%、「それほど心配がない」が53.0%となっており7割強の高齢者は暮らしを心配していないと書いている。病気、家の修理、そして災害に遭遇すれば、生活は成り立たなくなる。しかも、インフレになれば、貯金・年金で暮らす高齢者はひとたまりもない。
 75歳まで稼ぐしかない。何歳になっても収入があればいかに有利か。しかし、65歳をすぎて雇用してくれる会社はほとんどないであろう。早くから老後に備えて蓄財をしておけというアドバイスもあるが、投資は簡単ではない。自営業は強いが、60歳から事業を始めるのは大変である。
 どうすれば稼げるのか。それを考えるヒントになることを書いてみた。
 
 いま50代の人たちが高齢者になる5年、10年先は、どうなっているのであろうか。年金受給開始は70歳になっているに違いない。転職経歴者であれば、退職金は少ない。少子化ではあるが、雇用はどうなっていることか。給料は減り、会社での仕事は現役時代のような居心地の良さはないであろう。
 65歳からの雇用は期待できない。さりとて定年後に事業を起こすのは大変である。投資もリスクが高い。とにかく稼がなければならない。
 働くことが原罪の罰というキリスト教の信仰を持つ欧米人は、そのような生活を軽蔑するに違いない。だが、日本人には働いている姿のほうがよく似合う。健康にもよい。
 
 本の最後をこう締めくくった。
「年をとり群れを離れて独り、他の者の縄張りを避けながら、注意深く、わずかな餌を求めて歩く一匹の野獣を思い浮かべます。自分しか頼りになるものはないのです。群れと共に生きることはもう終わったのです。何日も餌にありつけず、空腹を我慢しながらも、じっとチャンスを待つライオンや白熊を私は尊敬します。そこには、自然の尊厳があります。人間もまたそうあるべきなのではないでしょうか。」
 

 
 
author:平田 周, category:平田周, 08:20
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差別には、「シャベツ」という読み方があった

差別には、「シャベツ」という読み方があった

                       平田 周

 

 英語の文章を訳しているとき、differentiateという言葉に出くわして、「差別化する」という訳語を使いかけて、一時流行ったこの「差別化」という言葉は最近使われなくなっていることを思い出した。

 確かに、人種差別や、男女差別、学校差別など、いい意味にはあまり使われない。辞書には、「区別する」「識別する」「差異化」「特殊化」などの日本語が並んでいる。だが、どうもぴんとこない。

 

 「差別」という言葉は、仏教では、一般に用いられている意味とは異なる使い方がされることをある僧侶から聞いたことがあった。確か「シャベツ」と言っていたように思ったので、広辞苑で調べてみた。あった。「しゃべつ(差別)」の項には、「[] 万物の本性が平等であるものに対し、それぞれの個物が具体的な差異をもっていること」とある。

 まさにこの意味だ、と思った。

 

 しかし、「差別」と書いたのではだれも「シャベツ」とは読んではもらえない。さりとて「しゃべつ」では意味が通じない。念のため、Wordで「しゃべつ」と入力してみたが、漢字は表示されなかった。

 同じ漢字でも読み方の違いで意味が異なるというのは、ほかにもあるに違いない。そのような例は、仏教用語に多いはずだ。

 哲学者の中島義道氏に尋ねたことがある。どうして哲学について書いた本は難しいのかと。彼は、明治時代の先人たちは、仏教についての教養が深く、外国語を日本語にするに際して、仏教用語を援用できたのだという。現代の私たちは仏教語の素養がないから、それに源を発する哲学書の文章が理解できない。

 

 外国語が日本に入ってきて外来語には、それぞれ時代背景を示している。漢字が大陸から入ってきた時代、オランダ語が全盛の頃、そして英語がとって代わった。いまわが国で使われるカタカナ語はすさまじい数である。

 以前紹介したことがあるが、英文ビジネス誌の記事にある単語を調べたら、そのうちの50%がすでにカタカナ語として日本語になっているものだった。どの記事でもほぼ同じくらいの比率である。科学雑誌でも同じだった。

 

 英語起源のカタカナ語が問題なのは、多義語である英語にはさまざまな意味があるが、日本語はそのうちの1つかし使わないのが流儀である。そのため、ボードといえば、板とか厚紙を連想するが、会議や連盟、食事といった意味は除外してしまう。

 英語のglassには、硝子、窓ガラス、グラス、眼鏡などの意味がある。明治の人たちは、ガラス、グラスというように音で区別する方法を考えた。ストライクトストライキ、コップとカップなどもその例である。

 外来語を単義語の日本語にするのに、日本人はいろいろ工夫したが、明治の人たちと違い、複数ある意味のほとんどを捨てて1つの意味だけにするという手抜きの道を選んでしまった。それが、日本人の英語下手の原因になったことはあまり気づかれていない。

 

 英文和訳の自動翻訳ソフトが誤訳してしまうのは、複数ある意味のどれを選んでよいのかがわからないからで、日本人が英語を苦手としているのと共通する。

自動翻訳を実用的に使うのなら、単語を英語のまま残せばよいのだが、まだ誰もこのことに気づいていないようだ。

author:平田 周, category:外国語, 13:28
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英語脳
英語脳
                    平田 周
 
 脳科学とやらいう言葉が何かと引き合いに出される今日だが、ある思考をする場合にどの部位を使っているかという測定をする実験が盛んである。大分以前のことだが、英語学習について脳の部位の刺激測定の実験をテレビで見たことがある。
 英語学習の初心者は、英語も日本語も左脳だけを使って考えているが、熟達者の場合、日本語は左脳、英語は右脳というように、左脳・右脳を使いわけているとうのである。脳科学のことはまるでわからないが、日本語で話しているときと、英語で外国人相手に説明をしているときでは、どうも発想や思考は別の回路になっているのではないかと思えなくもない。日本語混じりの会話を外国人とする場合、相手の日本語が未熟だという意識もあって、なんとなくぎこちない日本語になる。英語的な思考で日本語を話しているのではないか。
 
 新英語習得法 EdeMで、次のような文例をコンピュータに自動翻訳させた。
 
【自然な日本語】
 メールしてくださったニュース、大変興味深く拝見しましたが、さらに詳しい
ことを知りたいと思いますので、詳細を知るにはどうすればよいか教えていただ
けませんでしょうか。
 
 これをそのままコンピュータに訳させると、次のような間違いだらけの英語になります。
I saw it, but I should do what, or, the news that I e-mailed, would you tell me a more detailed thing very with fascination because I think that I want to know it to know the details?
 
【英語的構造の日本語】 
あなたのメールの中のニュースに私は興味を持ちました。このニュースについて私はより詳細を知りたい。その詳細を知るための方法を私に助言して下さい。
 
これを3種類のフリー翻訳ソフトを使って自動翻訳させると、次のようにかなりによい英語になる。
 
(Yahoo) 
I was interested in the news in your email. I want to know the details
about this news more. Please advise me by a method to know the
details.
 
(Excite) 
I got interested in the news in your mail. I would like to know details more about this news. Please advise me on the method for getting to know the details.
 
(Google) 
I was interested in news in your mail. I want to know more about this newsPlease advise me how to get to know the details.
 
 翻訳ソフトによって優劣はあるが、みな一応、しっかりした英語になっている。
 
 普通の場合、頭の中に文例に示したような内容のメッセージが浮かび、これを英語にしようと思うとき、そのままそれを英語に訳すと、間違いだらけの英語になってしまう。それを「英語的構造の日本語」に直してから英語にすれば、正しい英語になる。その代り、その変換に時間がかかる。
 では英語の熟達者はどうか。外国人と話すとき、最初から「英語的日本語」がメッセージとして頭の中に浮かび、そのままそれが英語になる。
 
 この英語的日本語で思考するのが、私の言う「英語脳」である。しっかりとした英語をスムーズに話したり、書いたりするには、この「英語脳」を持っていることが必要なのだ。
 「英語脳」は、普通、英語がうまくなるにつれて出来てくる。英語力を身につけなければ、「英語脳」はつくられない。
 しかし、頭の中に、「英語的構造の日本語」で直接的にメッセージをつくれるようになれば「英語脳」はつくられることを、EdeMの開発から発見した。英語がわからなくても、日本語で「英語脳」発想はが可能なのだ。
 
 逆に言えば、いくら英語を勉強しても、この「英語脳」ができていなければ、外国人に通じる、あるいは説得できる英語にはならない。「英語的日本語」で表現できれば、自動翻訳は可能であり、通訳が英語にする場合もひじょうにらくであり、相手に正しく意図を伝えることができる。
 学校で英語の教師は、この「英語脳」について教えない。文法ばかり教えるから日本人は英語を話せないのだと批判する。文法なしに英語を教えるには、限られた必要な英会話のフレーズを丸暗記させるほかない。これは外国で生活を通して自然に覚えていく外国語習得法である。
 
間違っているのは、「英語的な構造の日本語」の思考法を教えないからだ。英語的な構造とは、英語の文法である。
 「英語脳」を持つこと。それは英語でなく、日本語で済むことだ。日本語で「英語脳」をつくれば、自動翻訳も使えるし、通訳も容易に翻訳できる。外国人も理解しやすい。「英語脳」ができれば、英語に興味を覚え、英語学習が楽しくなる。
 
 EdeMの受講者に上述した「自然な日本語」の文を、「英語的な日本語」に直してもらった。次のような結果だった。
 
【オリジナルの日本語】
 
昨日のミーティングで、次回は私が当番で話をすることにきまりましたが、どのようなテーマがよいか、迷っています。ご関心のあるテーマがありましたら、教えていただけませんか。
 
【受講者からの解答】
 
(1) 昨日、会議が行われました。そして、私が次回、スピーチをする当番になりました。しかし、私はどんなテーマについての話をするべきかを迷っています。
もし関心のあるテーマがあるなら、それを私に教えて下さい。
 
(2) 昨日のミーティングで、時価の当番は私に決まりました。私は話す内容について、どのようなテーマがよいか迷っています。もしあなたが興味のあるテーマがあれば、教えて下さい。
 
(3) 昨日、ミーティングをしました。次回、私が話しすることに決定しました。
しかし、私はどんなテーマが良いか迷っています。私が関心のあるテーマがあれば教えて下さい。
 
(4) 昨日私はミーティングに参加した。その私が参加した会議では、次回のミーティングで私が順番で話すことが決まった。だが、どのようなテーマについて話せばよいのか、まだ私は決めていない。関心を持っているテーマがあれば、私に教えてほしい。
 
(5) 次回のミーティングは私が当番と昨日決まりました。つきましてはテーマを募集致します。興味や関心のあるテーマがございましたら、提案いただけませんでしょうか。
 
 これらの解答のいずれも、自動翻訳させると間違った英語、あるいは意味が不明確なところがある英語になります。
 私の模範の「英語的日本語」は以下のようです。
 
【模範解答】
昨日のミーティングにおいて、次回のスピーカとして私が選ばれました。何の話題について話すべきか私は迷っています。あなたが関心を持つ話題は何ですか。もしあなたが持っていれば、私はそれを知りたいです。
 
In the yesterday's meeting, I was chosen as a next speaker. I am at loss what topic I should talk about. What is the topic that you are interested in? I want to know it if you have it.
 

日本語としてあまり違わないようだが、コンピュータに英訳させてみると、明らかに違う。受講者の解答と模範解答の日本語文を比べてみると、意外に面白いことがわかってくるはずだ。
 
グローバル人材とは、「英語脳」を持つ人と定義してもよいのではないか。
 
 
 
author:平田 周, category:外国語, 05:37
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